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2022年09月27日 11:04
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新解釈・日本書紀 応神<第56回>
伴野 麓

 (70)辰斯王(しんしおう)の無礼とは・つづき
辰斯王は、即位当初、千余里の長城を築くなどして高句麗の南侵を防ぐことに注力したが、次第に、狩猟と享楽にふけるようになり、人民を酷使して、百済建国以来初めてというほどの非常に壮麗な宮殿を造った。人造秘苑を設けて、大きな池に各種の魚を放ち、珍しい動物や植物を飼うようになって、国力はにわかに疲弊していったということだ。
392年10月、高句麗の広開土王は4万人の大軍で「百済の北方要塞」であった礼成江(レソンガン)下流の関弥(クァンミ)城を攻略した。関弥城の陥落に辰斯王は善後策も講じず、狗原行宮へ狩猟に出かけたまま10日後に急逝した。「百済の北方要塞」とある百済は百済連合と解すべきで、沸流百済と温祚百済との連合軍を意味する。
その沸流百済は、韓地に残った檐魯(たむろ)たちのことで、温祚百済に組み込まれていた。温祚百済の朝臣らは、王位を簒奪した辰斯王が国防を怠り狩猟に出かけるなどして国家の危機をもたらしていると不満を抱き、応神(沸流百済)の攻めに同調し、辰斯王を殺害、王位を奪われた阿花王(あくえおう)を擁立したと見られている。

(71)〝倭〟が入れ替わった
応神16年、百済の阿花王が薨(こう)じ、誉田(ほむた)=応神は直支王(ときおう・阿花王の長子)を呼んで「そなたは、国へ帰って、位につけ」と言い、東韓(とうかん)の地を下賜した。東韓とは、甘羅城(かむらのさし)・高難城(こうなんのさし)・爾林城(にりんのさし)のことだ。内藤虎次郎(湖南)著『内藤湖南全集第7巻』の『卑彌呼考』に、「爾林は、三國志馬韓の條に兒林の國名あり」とある。
阿花王は、三国史記・百済本紀には阿萃王(アシンワン)と記されている。日本書紀・神功紀に「百済の枕流王(とむるおう)が薨じた。王子阿花が年若く、叔父辰斯が位を奪って王となった」とあり、同・応神紀に「百済国は辰斯王を殺して陳謝した。紀角宿禰(きのつののすくね)らは阿花を立てて王として帰ってきた」とある。
その二つの記事の背景に、日本史学界の「二周甲引上げ」(”甲”は六十干支の意味で、1周が60年で還暦。2周は120年引き上げること)が巧妙に隠されていると指摘されている。神功と応神の間には120年のブラックホールがあるにもかかわらず、阿花王の名が両記事に見えるのは「二周甲引上げ」によるもので、応神朝が韓半島から亡命してきた王朝であるということを覆い隠すためのものだという。
その後、阿花王も倭国に欠礼したというが、応神は、忱弥多礼(とむたれ・済州)・峴南(けむなむ・車嶺以南)・支侵(ししむ・車嶺以西)・谷那(こくや・礼成江流域)・東韓之地(慶南海岸)の5地域を奪取した。阿花王の太子である直支王(腆支王)を人質として、もとの鞘に収めたというのだ。つまり、5地域を温祚百済に領知させたということだ。その記事を、日本史学界は「倭国が、韓半島の南部を支配していた証拠だ」としている。しかしそれは、沸流百済を抹殺したがゆえの錯覚の虚論だ。
沸流百済は高句麗・広開土王に撃破されて倭地に亡命したが、その際に韓地の領土を温祚百済に下賜という形で委任したと考えられる。阿花王が欠礼したことにより、その旧地の委任を解除したということに過ぎない。倭が支配していたというのは、「倭=沸流百済」を意味しているからだ。それは本来の倭、すなわち新羅系山陰王朝の倭ではない。

2022-09-28 6面
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