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2022年09月06日 11:03
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新解釈・日本書紀 応神<第53回>
伴野 麓

(67)和珥氏が尾張氏にとって替わった

応神の息子、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)を生んだのは和珥臣の祖・日触使主(ひふれのおみ)の娘の宮主宅姫(みやぬしやかひめ)だ。古事記には、近江に行幸のとき、山城国字治郡の木幡村(こはたのむら)で出会った嬢子(おとめ)だと記されている。出自を問われて、「和邇(わに)の比布禮能意富美(ひふれのおほみ)の娘で、名前を宮主矢河枝比賣(みやぬしやかはえひめ)」と答えている。
ところで、近江八幡神社は宗像3女神を祀っているが、古い社名は日触社だという。つまり、宗像3女神を奉祀するのが日触氏だということだ。
ちなみに先代旧事本紀では、宮主宅姫を香室姫と記している。
応神の息子、大山守(おおやまもり)を生んだのは、古事記によれば品陀眞若王(ほむだまわかおう)の娘の高木之入日売(たかきのいりひめ・日本書紀では高城入姫)だ。日本書紀は品陀真若王の名を記さず、その出自を「皇后(仲姫:なかつひめ)の姉」とだけ記し、仁徳紀で仲姫を「五百城入彦(いおきいりびこ・品陀真若王の父)の孫」と説明している。
さて古事記によれば、品陀眞若王は「五百木之入日子(五百城入彦)と、尾張連の祖である建伊那陀宿禰(たけいなだのすくね)の娘・志理都紀斗売(しりつきとめ)との子」である。つまり品陀真若王の母系が尾張氏ということになる。
大山守が「太子(菟道稚郎子)を殺して帝位を取ろう」と企て失敗した事件は、尾張氏を外戚とする大山守が、和珥氏を外戚とする菟道稚郎子と皇位を争って敗死したということで、つまりは、和珥氏が尾張氏にとって替わったことを意味する。
神功皇后の摂政時代に、武内宿禰とともに数万の兵を率いて忍熊王(おしくまおう・仲哀天皇の皇子、母は神功皇后ではなく大中媛)を撃ったのは、和珥臣の先祖・難波根子武振熊(なにわねこたけふるくま)である。忍熊王とは「忍の王」という意だ。この出来事により、応神が天皇となる道が確固たるものとなった。
大山守の後裔とされる日置朝臣の「日置」は「海人の国」を意味するという。「日置」を調べてみると、孝昭天皇の皇后・世襲足姫(よそたらしひめ)の別名が日置日女(ひおきひめ)であり(先代旧事本紀)、日本書紀に尾張連の祖・瀛津世襲(おきつよそ)の妹と記されていることから、尾張海人族の一流であることが分かる。
つまり、世襲足姫の子である天足彦国押人(あめたらしひこおしひと)を始祖とする和珥氏系諸氏族が、尾張氏系諸氏族に替わって海人諸勢力の棟梁となったことが、忍熊王や大山守王の叛逆・敗死伝承を介して語られているのだ。それは、応神朝成立期における海人族諸勢力の相剋と再編成があったことを暗喩する。
応神3年11月条に「処々の海人が騒いだので、阿曇連の祖の大浜宿禰を遣って平定した」とあるのが、そのことを傍証する。すなわち、尾張氏系海人族を配下に従えた和珥氏系海人族の優位を主張するエピソードが、忍熊王を滅ぼした難波根子武振熊の伝承であり、大山守王を倒した菟道稚郎子の伝承なのである。
その後、和珥氏系の宮主宅姫の子である菟道稚郎子は自ら死を選び、入彦王家の血を引く五百城入彦の孫の仲姫が生んだ大鷦鷯(仁徳)が、即位した。その見えすいた美談の背後に、実は醜い皇位争奪のあったことが明々白々と窺える。

2022-09-07 6面
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