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2022年06月21日 12:41
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新解釈・日本書紀 応神<第47回>

 (「ワニ」の謎・つづき)
王仁の訓読みは、ワニという読み方にはならないはずなのに、ワニと読ませるのは和珥に通じるということだ。すなわち、沸流百済の王仁と倭地の和珥が合体したのが応神王朝だということを暗喩している。
そのトリックが見破れずに、応神は実在しないとか、仁徳と同体だとか、あるいは伝説上の人物だ、などの述作が登場してくる。太子の菟道稚郎子は系譜をたどれば、和珥の氏族であることも、それを傍証する。それはまた、応神=王仁が、はるか昔から倭地に存在する和珥氏族であるかのごとく装うためのものでもある。
松本清張は「和珥は王仁を和風にしたのだろう」と述べているそうだが、王仁が和珥、あるいは和邇などと同一とするなら、王仁=天足彦国押人=姥津=日触使主=建振熊という関係になる。しかし、どこか無理があるような気がする。
畑井弘著『古代倭王朝論~記紀伝承の虚実』は、「神功皇后の父息長宿禰王の系譜伝承では、息長宿禰王家が、越・近江・丹波・山代に繁茂した北海の覇王、和珥系海人族の彦坐王家に出ることを言い、さらに但馬・播磨・吉備への積極的な進出を語る」と述べている。
宝賀寿男著『古代氏族の研究(1)和珥氏~中国江南から来た海神族の流れ』によれば、奴国王家一族の後裔は、阿曇氏や儺県主として上古からの故地に残ったが、大勢は畿内の摂津難波に移住し、そこで阿曇氏として活動した。その移遷時期は定かでないが、2~3世紀代の海神族の国としては、博多平野の那珂川流域にあった奴国、すなわち葦原中国の王族嫡裔が和珥氏だという。
ややもすると、海神族本流と見られている阿曇氏だが、むしろ和珥氏の支流ではなかったか。和珥氏族の宗族は後に添上郡春日に分かれた春日臣氏となるが、北九州にも春日の地名があり、那珂川と御笠川に挟まれた奴国の領域なのである。

(61)和珥氏は春日氏と改称
和珥氏の本拠地は、初め大和国添上郡の和爾(天理市和爾町)と推定され、氏族の名もその地名に因るとされている。同地には和爾坐赤阪比古神社が鎮座し、集落の入口には和珥坂下伝称地と刻まれた標石がある。その集落は和爾の村・王仁の村と称されているそうだ。その後、奈良盆地東北部に広く蟠踞し、北方の春日の地に中心を遷し、これに伴い6世紀の欽明朝の頃に春日氏と改めたという。
古事記は、天足彦国押人を祖とする春日氏(和珥氏本宗)、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壱比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟耶臣、都怒山臣、伊勢飯高臣、壱師君、近淡海国造ら16氏族を明記しているが、日本書紀は、天足彦国押人の後裔氏族を和珥臣等として後の氏族名を記していない。
記・紀によれば、応神以降の7大王に9人の后妃を入れ、5~6世紀後半にかけて大王(天皇)家の外戚氏族として勢力を誇ったが、和珥氏族出身の后妃が生んだ子が皇位につくことはなかったという。

2022-06-22 6面
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