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2022年05月31日 10:39
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新解釈・日本書紀 応神<第45回>

(58)蝦夷(エミシ)が蝦夷(エゾ)に変質
日本書紀に、蝦夷という語が最初に出てくるのは景行紀の27年条で、武内宿禰の言に「東国のいなかの中に日高見国(北上川流域か)があります。その国の人は男も女も髪を椎(つち)のような形に結い、体に入墨をしていて勇敢です。これらすべて蝦夷といいます。また土地は肥えていて広大です。攻略するとよいでしょう」とある。
その13年後に「東国の蝦夷が背いて辺境が動揺した」ので、ヤマトタケル(日本武)が征討に向かい、悪戦苦闘しつつも、「蝦夷の悪い者たちはすべて罪に服した。ただ信濃国・越国だけがすこし王化に服していない」という状態にした。ところが、ヤマトタケルは病に侵されて、虜にした蝦夷を伊勢神宮に献上し、能褒野(めぼの・鈴鹿郡の地名)で命が尽きた。
伊勢神宮に献上された蝦夷は昼夜騒いで礼儀もなかったので、倭姫(伊勢神宮に天照大神の祠を立てた人物)は、「蝦夷らを神宮に近づけてはならない」と、蝦夷を朝廷に進上した。それで三輪山の辺りに置かれることとなったが、蝦夷はそこでも山の木を伐ったり、大声を上げたりして村人をおびやかした。景行は、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の五つの国に蝦夷を追放した。その蝦夷が佐伯部の先祖になったということだ。
応神紀3年条に「東の蝦夷がみな朝貢してきた。その蝦夷を使って厩坂道を造らせた」とあるが、蝦夷の先祖の佐伯部が応神に臣属したということだろうか。佐伯部は後世、朝廷の警護を担当した。であれば、蝦夷は朝廷を支える主体勢力の一つと見ていい。しかし後に、蝦夷はアイヌという形で蛮族視された。それは蝦夷が、ある時期を境に、その実態が変質した、あるいは変質させられたことを示唆する。
蛮族は古くは夷あるいは毛人と書かれてエミシ・エミスと読み、蝦夷という熟語が使われるようになったのは、乙巳の変から奈良時代にかけてだという。その時代には蝦夷はエミシ・エミスと読んでいたそうだが、平安時代に入ってから蝦夷をエゾと読むようになった。
毛野という地名は毛人の住む地域だったからと推定されているが、上毛野氏、下毛野氏という人名から出ていると考える方が事理にかなう。上毛野氏の祖は豊城入彦であり、東国を統治したとされる。
津田左右吉は「大化改新(乙巳の変)前までは、蝦夷征討は大和朝廷の関与するところでなく、地方人に放任してあった」と言っているから、豊城入彦の時代は、蝦夷の存在は記録の対象ではなかったのだろう。
新撰姓氏録には「佐伯宿禰、大伴宿禰同祖」とあり、長門本『平家物語』には、渟田(安芸国)の佐伯部も蝦夷である旨が記載されているそうだから、蝦夷がアイヌの蝦夷(エゾ)を意味するものではなかったのは明らかだ。
新井白石は「蝦夷の祭における鈴の使用は、模倣から由来するものであろうが、馬韓においての使用は、あるいはそれが日本の源流であるかもしれない」と述べている。「神域を設けて、蘇塗と呼び、大木を立て、そこに鈴鼓をかけておいた」という記述が魏志の韓伝にある。

2022-.0-6. 6面
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