(53)紀角宿禰は沸流百済=倭国の王族
〈応神紀〉3年条に、百済の辰斯王が日本の天皇に欠礼したので、紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木莵宿禰が遣わされ、阿花を立てて王として帰ってきたとある。紀角宿禰らが百済王の交代に関わったというこの記述について日本史学界は、倭国が百済の国政に参画した証拠であり、韓半島を支配していた証だと主張している。
しかし、当時の倭国は文化のない荒蕪な地であり、魏志・倭人伝によれば、卑弥呼の時代、倭には牛馬がいず、応神15年に百済の阿直岐が良馬2匹をもたらしたと記されている。だからこそ、あまたの渡来人が縫織や農耕を教え、王仁が渡来して論語と千字文を伝え、百済仮名(百済の吏読字)に倣って日本仮名が作られたという。
百済の国政に参画したという記事が突然現れてくるのは、為政者の立場に大きな変化が生じたということだ。すなわち、応神朝は亡命王朝であって、身は日本列島にあっても、心は韓半島にあり、故地を託した檐魯(開拓した土地の統治に任命した王族の子弟)や温祚百済に睨みを効かせていた。そうしたなかで、韓半島残存勢力が、倭地の沸流百済(応神朝)に欠礼という事態が生じたということだ。
大阪府堺市にある桜井神社の祭神は武内宿禰(古事記では建内宿禰)だが、新撰姓氏録・左京皇別に「桜井朝臣は石川朝臣と同祖で、蘇我石川宿禰の4世孫である稲目宿禰の後なり」とあり、「紀朝臣は石川朝臣と同祖で、建内宿禰(武内宿禰)の男である紀角宿禰の後なり」と記されている。桜井朝臣、石川朝臣(蘇我氏)、紀朝臣などはみな建内宿禰の子孫ということだ。
新撰姓氏録・和泉国皇別は「掃守田首、武内宿禰男紀角宿禰之後也」と載せ、和泉国神別に「掃守連、振魂命四世孫天忍人命之後也、雄略天皇御代、掌掃除事、賜掃守連」と載せる。「掃守」は加守ともなり、「カモリ」とも読まれているが、そのカモリ氏が二つの流れを持つということは、古来のカモリ氏と、応神朝の頃に新しく興ったカモリ氏とがあるということか。また、新撰姓氏録に「坂本臣、紀朝臣同祖、武内宿禰命之後也」「坂本朝臣、紀角宿禰男白城宿禰之後也」とある。
(54)羽田矢代宿禰も武内宿禰の子
羽田矢代宿禰(古事記では波多八代宿禰、矢代氏の祖)は武内宿禰の子で、新撰姓氏録・和泉国皇別の掃守田連と同族ということだ。和泉国の矢代寸神社(大阪府岸和田市八田町)の祭神は、武内宿禰、羽田矢代宿禰らである。羽田は波多、八田、畑、旗などとも記されるが、紛らわしいのは秦だ。秦氏の先祖は応神朝に百済から120県民を率いて渡来した弓月君で、真徳王↓普洞王(浦東君)と続くが、羽田矢代宿禰の流れとは別系のようだ。中世、若狭地方の秦氏は製塩権などを得て、遠敷郡(現在の小浜市)田鳥浦から矢代浦にかけて繁栄したと伝わっている。 |