朴正煕大統領が推進した近代化革命の精神的土台は、実用主義、合理主義だった。これは当然、科学精神と通じる。朴大統領は科学者ではなかったが、科学と技術を理解するリーダーだった。
朴正煕は満州国、日本、韓国の陸軍士官学校を出た。当時の士官学校教育は基本が理工系だ。朴正煕は砲兵将校として戦闘をシステム的に捉えるよう訓練を受けた。砲兵は大砲と砲弾の性能を知らなければならず、目標を命中させるには読図法と測量法、三角法に熟達しなければならない。
朴正熙大統領は、韓国の科学技術発展の種となるKISTに加えられるあらゆる外圧を遮断した。ソウル市長と農林部長官を呼び、「林業試験場も重要だが、科学技術研究所はもっと重要だ」と言い、ソウルの洪陵にあった国立林業試験場を地方に移し、KISTの建立敷地にするように指示した。
約8万坪の森の中、10余棟のビルに完全な施設を備えたこの研究所は、内資36億1000万ウォンと外資918万8000ドルを投資、第2次科学技術振興5カ年計画期間中、最大規模の事業として成功を収めた事業の一つだ。
KISTは、純粋研究機関ではなく、すぐ経済開発と産業化に寄与できる応用技術研究開発を追求した。これはその後、重化学工業の基礎ともつながる。
博士号を取得し5年以上の研究経歴を持った18人を選抜した崔亨燮所長は、彼らを米国の「バテル記念研究所」へ送った。
ベル研究所出身が、なぜベル研究所より劣るバテル研究所へ派遣するのかと訊くと、崔所長は、「バテルに派遣する理由は、専門分野の知識を補強しようとするのではなく、どうすれば商売をうまくするのかを学ぶためだ」と答えた。まず、どう研究計画書を書き、企業から研究プロジェクトを取って来るのかを学ばねばならないということだ。
KISTの成功は、科学技術を金稼ぎと結び付けることから出発したのだ。金儲けを罪悪視していた「士農工商」と決別した。
「私たちがやらねばならないことは、学究的なものではなく、企業が望み、企業が必要とするものでなければならなかった。それで、研究する人々もこれに合った仕事をしなければならなかった。ところが、現実はこれとは違う。勉強した人々、特に外国で学位を取得した人々は、やはり学究的なことが好きです。このように、社会の要求と研究員の対応を現実に合わせて調和させることが、研究所の経営陣が考慮せねばならない当面の課題だった」(崔亨燮の回顧録『明かりが消えない研究所』から引用)
1960年代の半ば、跳躍期に入った韓国経済、特に輸出主導政策を先導していた繊維工業界が望むのは、新しい繊維の合成ではなく、織物加工においての染色問題だった。このような研究は、外国で勉強し博士号を取ってきた研究者たちは注文してもやろうとしなかった。
崔亨燮所長は、この分野の研究員を現場で見つけようとした。ソウル工大の繊維科を卒業し、釜山のデウォン染料会社という中小企業で働いたことのある尹漢植博士を研究員として採用した。
技術者出身の研究員の尹氏は、学者のような研究員たちの間で多いに苦労をしたが、結局、大成した。
彼は、後に第3世代の合成繊維であるアラミド繊維の製造方法を開発し、彼が提示した高分子形態学の新しい理論は、世界的な権威を持つ学術雑誌のNature(ネイチャー)誌に紹介された。
(つづく) |