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2022年03月18日 11:12
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新解釈・日本書紀 応神<第36回>

◆労来田姫(応神と高城入姫との子)
労来田姫(皇女)の事績も伝わらないが、古事記には高目郎女と表記している。
かつて大和国に百済という地があり、葛城川(広瀬川)と重坂川(百済川)の間の村落で、現在の大和高田市の付近であったといい、応神朝に百済から渡来した人たちが居住した地とされる。300年ほど後の世の壬申の乱(672年)で活躍した大伴連馬来田がいるのだが、その馬来田は百済から渡来した一族の後裔と見られ、弟が吹負という。
和名抄は、河内国石川郡紺口郷を、中村河内村白木村赤坂村等の地としている。紺口は、感玖あるいは咸古にも作り、日本書紀・仁徳紀に「大溝を感玖に掘った。石河の水を引いて…」とある。新撰姓氏録には「河内皇別紺口県主、志紀同祖神八井耳命之後也」とあり、日本書紀・綏靖紀に出てくる神八井耳の後裔だとしている。
日本書紀は、スサノオ(素戔鳴)の子である天津彦根を馬来田国造の祖と記し、旧事本紀・国造本紀によれば、「馬来田国造、志賀高穴穂朝(成務)御世、茨城国造祖、建許呂命兒、深河意彌命賜」とある。馬来田国は、上総国望陀郡、現在の千葉県木更津市付近の地に比定されている。
淡路御原姫(皇女、応神と弟姫の子)
淡路国の御原は、古事記に三腹、旧事本紀に三原と表記され、淡路御原姫はこの地名によるものとされる。淡路の海人の中でも御原海人はとくに強大な部民とされ、和名抄は三原郡阿万郷の名を遺す。後世に海賊として暗躍したという。
紀之菟野姫(皇女、応神と弟姫の子)
古事記には木之菟野郎女と表記されているが、事績は伝わらない。
宮主宅姫(応神の妃、和珥臣の祖の日触使主の娘)
宮主宅姫は、古事記に宮主矢河杖比売と記し、太子になった菟道稚郎子を出産した。父の日触使主の触は村邑(プル)に由来する語で、使主は韓地からの渡来者につけられる姓だとされるから、日触使主の一族も韓地からの渡来者であることを示唆する。
品陀別(応神)が宮主宅姫と出会った木幡村の木幡は強田とも書き、古代の巨椋湖へそそぐ宇治川の河口の近くに比定されている。応神が葛野を望観した宇遅野は木幡山と推断されている。木幡山は、伏見山(堀内村)の東面に比定され、六地蔵とも称され、奈良、宇治、伏見、大津と続く道中であった。
菟道稚郎子(応神と宮主宅姫の子)
菟道稚郎子は、古事記には宇遅能和紀郎子と記し、播磨国風土記は宇治天皇と称している。菟道は、兎道、鵜路、宇遅、迂遅などとも表記され、現在の京都府宇治市の地だ。応神は、仲姫とのあいだに大鷦鶺(仁徳)、高来入姫とのあいだに大山守、宮主宅姫とのあいだに菟道稚郎子らを産んでいる。
応神は菟道稚郎子を寵愛し、太子にしたのだが、皇子らの皇位継承欲は熾烈だったようだ。太子となった菟道稚郎子は、百済から「論語」10巻と「千字文」1巻を伝えた王仁を師とした。太子になれなかった大山守は、菟道稚郎子を亡き者にしようと謀ったが、逆に殺害された。

2022-03-19 6面
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