韓国の企業は1960年代の半ばまでは、どこでも必要な場所に工業用地を開発し工場を建てることができた。この事情は既存の工業地帯だった京畿道と釜山、大邱など大都市地域で顕著だった。しかし60年代の後半になると、こうした民間企業の自由立地に批判の声が大きくなった。工場立地の自由な開発は、国土の乱開発をもたらし、効率的な国土利用を阻害するため、産業団地を造成して工業を特定地域に集中させなければならないという主張が建設部を中心に提起された。
ところが、商工部は製造業の育成のための政策次元で、自由な立地を認めるべきと主張した。こうした二つの主張の妥協案として登場したのが「民間産業団地造成案」だった。民間企業が工業用地開発の主導権を持つという点で商工部と企業側の主張を受け入れ、特定地域に集中的に工業団地を造成して国土の計画的利用を図るという点で建設部の意見を受け入れたものだ。
その結果、60年代の後半に京畿地方から、類似業種の企業が民間工団を造成した。ソウルの永登浦機械工団、韓国合成樹脂工団、仁川市の仁川機械工業団地(69年)、仁川非鉄金属工団、韓国製材工団などが代表的な例だ。
67年から69年、光州・大田・全州・清州・大邱・春川など道庁所在地に産業団地が造成され、これをきっかけに70年からは裡里、原州、木浦など地方中小都市まで産業団地開発が拡大した。地方都市に開発ブームが起きたのは、大きく二つの要因があった。まず、市・道の主導的な役割と地元企業の積極的な参加があった。二番目に、60年代後半の大都市圏を中心とした不動産ブームが地方都市まで広がり、産業団地が造成される前に分譲が行われ、これが市・道次元での産業団地開発のブームにつながった。
朴正熙政府は、米国の支援、韓日国交正常化、ベトナム戦参戦によって経済を安定させた。すでに第1次経済開発5カ年計画の最終年度の66年に、韓国は13・4%という驚異的な経済成長率を記録した。韓日経済協力は、明朗な関係で始まったわけではない。日本の商社などは、5・16革命直後から将来、韓国進出を考え、多くの後進国事業で利権を確保するための手段だった賄賂を共和党に政治資金として提供し始めた。国交正常化後の円借款は現金で資金が提供されるのではなく、計画されたプロジェクトに現物として援助が提供されるものだった。
いずれにせよ、金日成は朴大統領に圧倒されるのを感じるようになり、朴正煕大統領を恐れ始めた。韓国が経済開発に全力を傾けるとき、金日成は第二の南侵を夢見始めた。金日成は、対南工作を強化し、労働党に対南秘書職制を作る。
朝鮮労働党は64年2月、党中央委第4期8次全員会議で「3大革命力強化」路線を採択し、南朝鮮局(連絡局)を「対南事業総局」に改編した。総局長には北送工作で北送船に乗って朝総連を指導した李孝淳が選ばれた。統革党事件(68年8月、摘発発表)などは、この対南事業総局が指導したものだ。金日成は間もなく、この対南事業総局を牽制する必要を感じた。66年10月、第2次党代表者会議が開催された。最終日の10月12日、党中央委第4期14次全体会の決議で、労働党中央委に秘書局が設置された。初代対南秘書に李孝淳が任命された。この時はすでに南・北韓はそれぞれベトナム戦争に戦闘部隊を派兵していた。
(つづく) |