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2021年12月11日 00:00
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新解釈・日本書紀 応神<第26回>

(37)沸流百済は韓地の領地を温祚百済に下賜

ただ単に百済と表記されている場合、温祚百済を指称する。温祚百済が韓地に残ったためだ。沸流百済は397年に高句麗広開土王に撃破され、王族の多くが倭地に避難、韓地の故地を温祚百済に下賜した形になった。漢城を都としていた温祚百済が475年、沸流百済の都・熊津へ遷都したことにより、余計に複雑になってしまった。沸流百済が歴史から姿を消し、温祚百済が百済と見なされるようになったのである。
新羅という表記も、統一新羅を指すのか、三国時代の新羅を指すのか、よく分からない。伽耶諸国も新羅と称している。それは、伽耶諸国が新羅に統一されたためだろう。日本海沿岸には新羅系の遺跡が多々存在するとされているが、その多くは伽耶諸国の遺跡だ。
一方、白村江(白馬江)に「くとれ」という船着場があって、百済人が日本へ渡る時には、そこから船出したという。その「くとれ」が「くだら」に転訛したという説もある。
魏志・東夷伝にある馬韓、辰韓、弁韓の三韓は、BC200年頃からAD200年頃、つまり日本でいう弥生時代に存在していたと考えられ、韓半島南部にあった国々は伽耶諸国と称された。高句麗を建国した朱蒙のもとを離れ、南下して百済を建国した召西奴には2人の子がいて、長子を沸流、次子を温祚といった。召西奴の国を継いだのは沸流だったが、正史はどうしたわけか温祚が百済を建国したと記し、兄の沸流は史上から抹殺された。
その沸流百済を復元したのが、金聖昊著・林英樹訳『沸流百済と日本の国家起源』で、本コラムも、その史観を基底としている。弟の温祚の百済は漢城(ソウル)を都にしたのに対して、兄の沸流が継承した百済は熊津(公州)を都とし、馬韓を籠絡、ついで韓地南部の伽耶諸国を略取して弁辰諸国を掌握した。

(38)沸流百済の隠滅で謎が深まる


辰韓は辰王を戴いて南下したが、漢江付近に到着して二手に分かれ、一つは辰王と別れて東海方面(慶尚道)へ進み、一つは辰王を戴いて西海方面(全羅道)へと進んだ。前者を便宜上、慶北辰韓と称する。辰王の一団を迎えいれた沸流百済は、辰王の権威を借りて国づくりを進めたとされるが、397年に高句麗広開土王に撃破され、倭地に避難した。広開土王碑文に刻されている利残国が沸流百済のことだ。それに対して、温祚百済は百残国と刻されている。
沸流百済の王族は、倭地に避難したが、かつての分国である狗奴国が東遷し、他の諸国も東進して、九州の地の王朝は姿を消していた。そこで、沸流百済も東進し大和に侵寇して、百済系大和王朝を樹立し、新羅系山陰王朝の事績を簒奪して、はるか以前から大和の地を領有していたかのように偽装した。そのためには、自らの存在を黒子にする必要があった。
沸流百済は、スサノオ(素戔鳴)を創作して日本書紀・神代紀を記し、神武紀や応神紀に仮託して、沸流百済が倭地を掌握していった経緯を投影していった。だからこそ、研究すればするほど、さまざまな矛盾が露出し、偽史と指弾されるのだ。そのため、この連載で沸流百済を復元し、そうした矛盾の穴を埋めて真実の歴史を再現しようと努力しているというわけだ。

2021-12-11 6面
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