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2021年11月17日 00:00
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新解釈・日本書紀 応神<第23回>

伴野 麓

 三国志・魏志倭人伝には倭に牛馬がいなかったと記されているから、文字を知らず、馬という動物を知らない倭人が、馬を含む「対馬」という熟語を表記することはできなかったはずだ。日本書紀・応神15年条に百済が阿直岐をして良馬2匹を送ったと記されているから、文字(漢字)と馬をもって渡って行った韓人によって、対馬という島名が表記されたと考えざるを得ない。対馬は韓地から多くの人が渡海して住んだとされ、7世紀末頃まで新羅・百済・高句麗の邑落国が対馬にあったと見られている。加羅と任那は別個の邑落国だった。
桓檀古記は、鶏知加羅が百済に属したとしている。日本書紀・神功49年条に、百済将軍である木羅斤資は、佐護の新羅と共に7国(村)を平定した功で、鶏知に任那国を建てた。同書応神25年条の分註に「木満致は木羅斤資が新羅を討った時に、その国の女人と結婚して産んだ子である。木満致はその父の功を負って任那を専横した」と記している。すなわち、木羅斤資は対馬島の交通と産業の要衝地である鶏知を占有して任那国を建て、その子の木満致は任那の勢力を拡大したのだ。今の対馬の首邑は厳原だが、それ以前は鶏知が首邑だった。
広開土王碑文に見られる任那加羅や三国史記・列伝強首伝に見られる任那加良は、対馬全島を指すものであり、任那日本府は、鶏知加羅にあった倭の官家(官庁)と考えられる。先にも述べたように鶏知に残っている前方後円の巨大な古墳群は、任那王族すなわち木羅斤資の父子とその子孫たちの墓と考えられるというわけだ。 

(33)快速船を25年間も放置

応神が伊豆国に造らせた長さ10丈(33メートル)の船は軽く速く走るので、「枯野」と名づけたが、その命名が道理に合わないから、日本書紀の編著者は、「軽野」が訛ったのだろうと推量している。これは、何かを隠そうとする意図があって、あいまいな表現にしたのではないだろうか。
枯野は「カラノ」ではなく「カラヌ」と読む。原註は訶羅怒だ。軽野になるとカラノともカノとも読まれ、狩野が訛ったものとされる。カノと読まれる場合は、加羅の意もある。軽が加羅であることは、古代韓語の視点からすでに考証されている。すなわち、軽はガラ・ガヤをあらわす日本風表記で、加羅・迦羅・柯羅・訶羅・伽耶・駕耶・駕洛などと漢字表記され、大河の義であったというものだ。その大河とは、駕洛国(現在の金海市)の東側に位置していることにより命名されたという洛東江だ。
古事記・仁徳紀に、「快速船の枯野は25年後には朽ちて使えなくなったので、枯野を薪にして塩500籠を焼き、その塩を諸国に分配したところ、官船500隻が諸国から献上された。武庫川の港に係留しておいたところ、新羅使の宿から火がでて、焼失した」という故事が収載されている。官船・枯野が老朽化して、焼いた時に応神が詠んだ歌にある由羅能斗を、釈日本紀(日本書紀の注釈書)は紀伊の由良とするが、地名辞書・淡路国は出石刀子の古跡がある淡路の由良に比定している。

2021-11-17 6面
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