たんぽぽ
私が児童学生図書館で保衛部(秘密警察のような機関)に捕まり、急に居なくなってドンスと会えなくなったのが約5年前だった。その5年間、私はドンスのことを考える余裕もなく生活に追われていた。しかし、ドンスは少なくとも私が自分の家と近い所で仕事をしていることを知っていたのに、これまで声を掛けなかった。
そして人生最後の頼みとしてキム君に私を連れてくるように言い、ドンスと思いもかけない形で3日前のことだった。その頼みとは隣人に関係するものだった。意識がないまま息絶えてもおかしくなかったドンスは、その最後の頼みをするために残された力を振りしぼったのだ。ドンスの願いはキム君も知っているが、自分で直接頼みたい気持ちが強かったようだ。
その頼みの内容に驚き、私はキム君の説明を目を閉じて聞いた。
ドンスの家は3畳ほどの台所と5畳ほどの部屋ひとつにひと家族が住むようになっていて、1955年ごろ東ドイツの技術者の設計で建てられたアパートだった。北朝鮮の地方では丈夫で天井が高く、窓が大きくて人気があった。家計に余裕がある人や、ある程度の地位にいる人たちが住むアパートだった。洗面所とトイレは共同で、ひとつの階に12の家があり、トイレだけがやっと使用できる感じで、私はいくら大変でもそのトイレは使用しなかった。このサイズの家で少なくて4人、多い場合は7人が住んでいることもある。ドンスの家は3階の階段を上がってすぐ右側で、その奥に三つの扉があった。端の家はその階でもっとも地位と権力がある者が住んでいるのだ。
驚いたのは、廊下の右側にドンスの家以外に三つの世帯が住まないといけないのに、ひと家族のみが住んでいたことだった。そこに住んでいる若い夫婦の両方とも両親が日本から北朝鮮に来た「帰国者(北朝鮮では1959年からの“北送事業”で日本から来た人を指す)」であった。
ドンスの家は場所的にも人気が高いところにあり、同じようなアパートでも値段が2倍以上の差があった。かなりお金に余裕があり、権力者でもないと住めないところだった。
その隣人がドンスの死を待って、ドンスの家を狙っていると、キム君は静かな声で説明した。ドンスの頼みは二つだった。
一つは、母親が帰ってくるまで自分の死を隠し、遺体を母が「処理」するように、とのことだった。どう考えても無理な頼みだった。
北朝鮮では結婚していない人は亡くなったらすぐ儀式もなく土葬し、毎年の法事もしない風習があった。何もかも崩壊した国で、風習を守る気はなかったが、問題は別にあった。
まず現在(当時)父親となっている家を出て放浪しているらしい父親を捜しに、あてもなく出かけたドンスの母親がいつ帰ってくるか予測ができないことだった。また毎日、何回も連絡事項を持ってきて監視の目を光らせている人民班長に、ドンスの死をどうやったら隠し通せるのか。いくら冬で寒くても遺体の腐敗とその臭いについてなど、あまりの難題に私の頭は考えるのをやめて石のようになってしまった。
もともとドンスの母親は家を出て放浪している現在の夫を探す気はなかったが、自分の死後、母が一人になるよりはその人と一緒にいる方が安心感があったらしく、母親の背中を押したようだ。つまりドンスの母親はドンスの状態を知っているということで、もしかしたら早く帰って来るかもしれなかった。そう思うのが都合の良い考えだったし、唯一の希望だった。
「ドンスを助けてください!」
このような願いはもう意味が無く、生きているドンスとの時間を無駄にすることだと判断した。ドンスという、17歳にもなっていない子どもが、人生の最後に頼りにした大人が私だった。
その重みが心にのしかかり、息ができなかった。(つづく) |