講師 勝股 優
険しい太白山脈の山々を越えると、山麓の向こうに青い海が広がる。30年以上前に江原道を訪ねて以来、何度も行った。趣味の釣りやアウトドア誌の編集長時代には松茸山の取材もした。2年前に久しぶりに春川市まで行ったが、道路は快適で、昔、金浦空港から襄陽まで白タクで5~6時間かけてたどり着いたのが嘘のようだ。
4世紀中頃まで北朝鮮の咸鏡道から江原道にかけて濊貊という二族からなる国があった。春川市には貊族の都邑があったと伝わる。
石器時代の昔、朝鮮半島北部の住人はツングース系の濊貊だったという。韓族も濊貊が地方化したものという説もある。ツングース族は、東はシベリア東部やロシアから朝鮮の沿海州、西はエニセイ川、北は北極海沿岸までの広大な地域に分布。狩猟や海や川の漁労を得意とし牧畜や粗放な農業を営んでいた。世界的には中国に金と清王朝を興した満州族(女真)が有名。高句麗も濊貊、扶余は蒙古と濊貊の混血で後に百済の支配者となる。新羅の支配層は北方系のようだが、よくわからない。
古代半島北部は箕子朝鮮↓衛氏朝鮮↓中国植民地と漢人支配が続いたが紀元前後から濊貊族が勢いを盛り返し国を形成。313年には同族の高句麗、そして馬韓(実質百済)が半島から漢人支配層を追い出すことに成功している。
しかしその濊貊国は4世紀中頃、突然歴史から消える。その理由がわからない。現代の歴史書は「高句麗の南下政策により併合される」とそっけない。
倭との関係もわからないが中国の魏志東夷伝にわずかに「弁辰の鉄の産地を韓・濊・倭が協力して維持している」という記載が見られるぐらいだが、勉強したらけっこう深い関係が見えてきた。
青銅器は濊貊の地から伝わったのだろう。最近、朝鮮半島で最も古い青銅器が江原道のアウラジ遺跡で発見されたが、なんと紀元前13世紀のものだという。倭に青銅器が伝わったのは弥生時代初期の紀元前4世紀ころといわれるが、剣や矛は武器ではなく副葬品となり、後に巨大な祭器となる。巨大な矛が対馬や四国の祭りで担がれている写真を見たことがある。なんでも大きくする日本人のオリジナルと見られていたが、前漢東夷伝に興味深い記述を見つけた。「濊族が大きな矛を作り祭礼の際に担いで歩いていた」と報告している。巨大な矛の祭りに倭と濊貊との関係がうかがえる。同時期に弥生式土器の基となる無文土器や櫛目文土器も伝わった。
言語にも関係がうかがえる。神道の祝詞に「ウカラ・ヤカラ」という文句がある。血族や親族という同族集団を表す言葉だが、弥生時代初期に満州・朝鮮半島のツングース系の種族によってもたらされた言葉という研究がある。青銅器や土器の伝来も同時期。その頃、人の大きな動きがあったと推測できる。
濊貊は海の交易氏でもあった。沿海州に沿って東南方向に流れるリマン海流は、沖を流れる対馬海流とは逆の方向に流れる不思議な海流。北朝鮮から漕ぎ出し、流れに乗り南下。対馬を目指し、舵を東に切って対馬海流に乗れば出雲や丹後に容易に着くはずだ。
江上波夫氏は東北アジアの騎馬民族が倭を征服したと推理したが、騎馬民族ではないが濊貊族もその候補に加えていいのではないか。高句麗に併合されたというが、争いもなくそう簡単にいくものだろうか。支配層が倭に移ったのではないかという妄想も浮かぶ。新羅に進出した可能性もある。春川市には素戔嗚尊が天下った地(ソシモリ)という牛頭山もあるのだから。
私の江原道の旅の思い出は人との交流だ。
12年ほど前、ロシアとモンゴル国境のエニセイ川の源流部に行った。テント生活が苦痛だったためツングース系だというツァータン族(トナカイを飼う人。正式にはウリャンハイ族)のゲルに泊めてほしいと頼んだら快く承知してくれた。遊牧民族は訪ねてきた人を大切にもてなすと聞いたが、その通り。4泊もして涙で別れた。ツングース族の伝統通り奥さんは二人いて姉妹だった。
同じ経験を江原道の束草でもしている。高台の畑の中にある食堂を訪ねたが、若い主人が泊っていけというので毎夜営業終了後テーブルを片付けて2泊もした。夜は車で街に連れて行ってくれた。同行した友人に聞くと以前一度会っただけの関係だという。
別の日、港に魚が干してあった。持ち主に焼いて食べさせてくれと頼むと、応接間にあげ酒までふるまってくれた。エニセイの地と江原道は一緒だった!
農耕民族で閉鎖的な日本では考えられない大陸的オープンさはどこからくるのか。江原道にはツングース民族の血が21世紀の今も色濃く残っているのだと、しみじみ思い出す。厚かましくて恥ずかしい話ばかりだが、旅人にやさしい思い出深い江原道の旅だ。
写真=2年前にキノコ狩りで登った山がスサノヲ天下りの地だったか。北漢江右岸の山だった。春川市は7世紀に牛首州と呼ばれていたらしい |