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2021年07月28日 00:00
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新解釈・日本書紀 応神<第12回> 

 応神(沸流百済)は日向の狗奴国の故地を尋ね、その脚で土佐(南海)へ回り、難波に入った可能性も高い。応神朝の頃は、瀬戸内海は諸豪が跋扈していたと考えられるからだ。武内宿禰が太子である応神を抱えて難を避けたのが南海航路で、佐賀関海峡を経て土佐洋を横絶し、紀伊国日高郡(由良港)というコースだ。『地名辞書〈土佐国〉』によれば「当時皇太子(応神)随従の船舶、玉島(現在の高知県須崎湾に浮かぶ玉島)に泊りたる旧事を伝へ」とあり、太子の応神に随従した船舶が停泊したことを記す。
邪馬台国は沸流百済の淡路(檐魯)ではなく、天日槍と由縁のある新羅系山陰王朝に属する連合王朝と見られる。つまり、天日槍と決別した阿加留姫=卵生女=神功=卑弥呼の連合王朝であり、沸流百済の分国である狗奴国と対峙していたのだ。その狗奴国の東遷は、饒速日集団、すなわち物部氏集団と考えられる。それは、物部氏が専用した布都神社の分布状況や同笵鏡分有関係などによって傍証される。長髄彦が饒速日から分与された天羽羽矢と歩靫は、神武(応神)と同族の印であった。

(17)広開土王碑にある「倭」とは

韓・中の文献に現われる倭は、応神朝以前は新羅系山陰王朝を指すものであり、応神朝以後は百済系大和王朝を指すものとなった。同じ倭でも、その実体は全く違うものなのだ。
広開土王碑文に刻された「倭」について考えてみよう。倭は391年に韓半島に進出して、新羅と百済を攻め破って臣属させたという。390年に即位した応神は、5年後の396年には倭地に亡命している。391年に倭地にいないはずの応神が、新羅や百済を攻め破ることはできない。
広開土王碑文にある倭は、利残国(沸流百済)のことだと考えると辻褄があう。広開土王碑文が作成されたのは414年で、利残国が滅亡した18年後にあたる。碑文作成者は利残国が倭地に亡命(避難)したことを知っていたので、亡命前の沸流百済のことも倭と表記した。沸流百済には、高句麗の攻撃を恐れるあまり倭に自らの姿を隠して、その存在を薄くしたいとの意図があったのかもしれない。
韓半島に進出して新羅と百済をともに攻め破り、平壌へ侵攻したという倭について「倭が、高度に武装した韓半島に進出したということは考えられない」との指摘がある。また、葛城襲津彦の任那派遣を記録している『日本書紀』なら、同一時期に行ったはずの侵攻を得意然に記録してしかるべきなのに、その記載がないのは侵攻した倭が、大和王朝の倭ではなかったからなのだ。
平壌を侵攻した倭は、広開土王に侵寇されなかった西南海岸の沸流百済の残存檐魯勢力だと思われる。その檐魯勢力は相当な軍事力を保有していて、温祚百済にすすんで臣属し、遼西百済郡の伝統をも継承した。檐魯勢力は、温祚百済軍と連合して高句麗軍に反撃を加えた。つまり報復抗争だったというわけだ。それを記録した広開土王碑文の作成者が、120県民や残存檐魯勢力を一括して「倭」と呼称したのだ。

2021-07-28 6面
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