図書館に就職した次の年、1996年2月16日の金正日の生誕日後、地域の図書館などに平壌の中央党宣伝扇動部からの集中検閲が入った。金正日の生誕政治行事が終わった直後で、いつもと同じように疲れている心身の休憩が必要なときだった。4月15日の金日成生誕政治行事に入る前に心身を休ませて次のストレスに対応するのが、私の習慣になっていた。私のストレス発散法は、私が好きな場所で自然と触れ合うことだった。邪魔がないと何時間もじっとして自然と話せるが、私がストレス発散で行く場所は長く居られるところではなかった。日本の空は雲が多くて美しい。大好きだ。
朝の出勤は1時間早めに、退勤はその日の日程が終わる時が帰る時刻だった。労働法や残業代など一切なく、好き勝手に無報酬で労働をさせる国だから、指示をする側はその日に終わらせる作業を言って自分はいなくなるのだ。指示に従う側の私は、夕食を食べずに夜10時を過ぎても文句も言わず、検閲に備える大掃除など指示された仕事をするのだ。指示する側は自分がやったことがないから、その作業がどのくらい大変で時間がかかるか分かっていない。そして職員5人の小さな職場でも公式な地位以外、後ろ盾や財力のある人は次々と帰り、私ともう一人が残って作業をすることになる。
人が亡くなると、3周忌の法事を盛大に行うのが韓半島の風習だが、金日成だから生誕日にも当て嵌めるのかと思いながら検閲の準備に従った。その厳しくも恐ろしい検閲に私が引っかかり、3度目の「命取り」となった。
それから、ドンスと別れも告げず、離れなければならなかった。再会は約5年後の2001年だった。ドンスの家と私が住んでいる所は近かったけれど、その間ドンスに気を使う余裕がなかった。ドンスとの再会は急な形で来た。
ある日、仕事中の私のところに17、18歳ぐらいの青年が息を切らせながら駆け込んできた。彼の口からドンスの名前が出た。久しぶりに聞く名前なのに、すぐ察した。ドンスが私にとって大事な存在だったのは間違いなかった。
「ドンスが痛がっています。会いたがっています」と彼が言った。ちょうどその時、職場の班長が入ってきた。班長に何の説明もせず、私の仕事を頼んで彼と走った。初面のドンスの友だちと、久しぶりのドンスの名前なのに事情も聞かないで走った。ドンスの家に着いて中に入った。大きくなったドンスが横になっていた。なぜか涙がすごく出た。泣きながらドンスに近付いた。
相変わらず痩せて細い顔だが、初めて見る顔のような感じもした。「ドンスや」と呼んだが、返事はない。ドンスの友だちに聞いた。「ドンスなの?」私が知っているドンスなのかという意味の質問だった。彼がうなずきながら「すごく痛がっています」と答えた。「眠っているの?」と聞いた。「分かりません。寝ているか意識がないか」と、彼の返事にびっくりしてドンスの手を握った。死人から伝わる体温ではなかった。冷汗が出た。握った手を揺らしながら、再びドンスの名前を呼んだ。何回か後に、ドンスがようやく目を開けた。「眠ってた?」と聞いた。返事はなく、力ない眼差しで私を見ていた。私を見分けていない様子だった。
そうなると私も、果たして私が知っているドンスなのか分からなくなった。その時、ドンスの友だちが私に「ドンスです」と再び言い、私のすぐ隣り、ドンスの頭の方に座る。「どこが悪いの?」と彼に聞いた。「自分も正確には分かりませんが皮膚に何か出て、それから高熱が出て」。「いつから?」と尋ねると、彼は「酷くなったのは10日前ぐらいからかな」。
私は「ちょっと待って、すぐに戻ってくるから」と言ってドンスの家を出ながら、友だちに「部屋を片付けて」と指示した。 (つづく) |