大化の改新以降に『日本天皇』という名称が日本書紀に何度か表れるので、国号を倭国から「日本国」に改め、倭王を「天皇」と改称したのは、大化の改新の時と思われます。
なお、現在、外国の史料で日本という国号が初めて表れるのは、百済滅亡後に唐に帰順した将軍・禰軍の墓誌とされています。665年の事として、『于時日本、餘噍據扶桑以逋、誅』<その頃の日本に、百済兵の生き残りが扶桑(東国)に逃げて立て籠もっていたので、討伐した>との一節に「日本」が確認できます。
倭国を滅ぼし、新しい国家「日本」の礎を築いた金春秋(鎌足)は、次の目標を百済の滅亡に定め、政権を思いのままに操っていくことになります。そして、孝徳政権が安定した646~647年頃に新羅に帰国したようです。日本書紀では645年7月以降、9年間も鎌足の姿が消えているので、新羅―唐―高句麗―日本と駆け巡り、隠密行動をしていたことが推測されます。
中臣鎌足の姿が日本書紀から消えている間、新羅では647年正月に●(田へんに比)曇による反乱が起き、善徳女王が崩御しました。その後、金春秋の母方の祖父・眞平王の弟の娘・勝曼が王に即位し、眞徳女王(在位647~654年)になっています。
金春秋は、翌648年の冬に庶子の文王を伴って唐に行き、太宗・李世民(在位626~649年)に面会して百済討伐の援軍を請いました。その結果、援軍を許可されたのです。
感激した金春秋は文王を宿衛に差し出して帰国すると、眞徳女王は翌649年正月から唐の衣冠の服制を採用するなど、唐に全面的に服従する政策を採りました。金春秋は、ついに百済への恨みを晴らすことができると士気が高揚していたことでしょう。しかし649年5月、唐の太宗・李世民がこの世を去り、援軍の派遣は白紙に戻ってしまったのです。落胆した金春秋の姿が目に浮かんで来るようです。
唐の皇帝の座を継いだのは、子の高宗・李治(在位649~683年)でした。金春秋は、翌650年6月に元子(長子)の法敏(後の文武王)を連れて唐に行き、再び百済討伐の援軍を願い出ました。その後、毎年高宗へ朝貢し息子の金仁問や文王を宿衛として留まらせるなど、高宗の心を掴むための努力を惜しみませんでした。
日本に目を移すと、651年6月に新羅の使いが調を奉るために筑紫に着いた時のことでした。孝徳政権は、新羅の使者らが唐の国の服を着ていたことを責めて、追い返したのです。その時、左大臣・巨勢徳太古は『今、新羅を討たなかったら、きっと後に悔いを残すことになるでしょう』と天皇に進言しました。もちろん孝徳天皇は、内臣・中臣鎌子の正体が新羅の金春秋だとは、まったく気づいていなかったのです。
その後、孝徳天皇は、653年8月に百済の義慈王と通好しました。これによって、新羅への攻撃も強化されることになりました。鎌足は、もはや孝徳政権が意のままにならない危険な政権になったことを悟ったようです。 |