勝股 優
倭の生活スタイルを変えた
私の夏の楽しみは鮎釣りだ。鮎は日本だけでなく韓国にも沢山生息している。釣り人は少なく、結果として日本よりよく釣れる。そんなわけでたびたび韓国に遠征している。北は江原道、南は蟾津江。最近では智異山東麓の山清がお気に入り。山清は、名医・ホジュンが医学を学んだ地でもある。TVドラマの前半のキーポイントだった。もうひとつ山清には古代、加耶の一国である乞飡国という小国があったらしい。釣りと歴史好きの私には、たまらない地だ。
| 「加羅」の文字が史料初見とされる高句麗の第19代・広開土王の業績を称えた広開土王碑の碑文。左端の「安羅」も加耶の有力国 | 加耶は慶尚南道と慶尚北道、全羅南道の一部を加えた国家集団であった。馬韓、辰韓、弁韓に分かれていた原三国時代から馬韓が百済、辰韓が新羅という国家にまとまったのに対し、弁韓だけは加耶(加羅とも表記)諸国という小さな国に分かれたまま共存していた。
こうした状況のなか、倭と加耶は現在の金海市にあった金官加耶(任那加耶ともいい、倭国は任那を加耶全体を表す国名とした)で生産する鉄を巡り弥生時代から交易していた。我が国で鉄が生産されるのは6世紀というから加耶の鉄は倭にとって命綱。交易のために住み着いた倭人も多く、両国は特別のつながりがあったと思われる。「5世紀末までの加耶と倭人の交流は活発で、ほぼ同一の文化を共有。言葉もほぼ共通だった」という武光誠氏の研究もある。
私のような60代は4~6世紀に倭国は加耶(任那)を支配していたと習ったが、今はその任那日本府の存在は否定されている。1917年、朝鮮総督府は植民地政策を正当化するため著名な考古学者を総動員して各地を発掘したが、任那日本府存在を裏付けるものは何一つ発見されなかったという逸話がある。
命綱ともいえる加耶との交易。倭国は高句麗や新羅との闘いに兵を送るなど、一定の政治・軍事的影響力を持っていたが支配していたとはみなされていない。日本府とは倭系加耶人と倭から派遣された官人の駐在所程度のものだったらしい。
加耶と倭国の特別なつながりにはこんな衝撃的な研究もある。文化勲章も受けている江上波夫氏が戦後まもなく発表した有名な「騎馬民族征服王朝」だ。
『東北アジア系騎馬民族、扶余族の一派が半島南部に進出して支配。その流れをくむ部族が加耶をベースに北九州に侵攻して崇神王朝を樹立。のちに応神天皇が東遷して大和政権を作った』
この説は、今や少数派だが強く支持する人もいる。私もこの説に近い。これだと倭国の政権にとって加耶は母なる国。加耶を外敵から守るため出兵して当然だ。血の結束は鉄の結束より強い。
これまで百済や新羅からの文化・技術の伝来について勉強してきたが、それ以前の加耶からの影響も多大だ。百済との国交も加耶国の仲介によるらしい。
| 馬冑は騎馬民族が騎馬戦に使った馬のかぶと。写真は和歌山の古墳(大谷古墳)から発掘されたもので、酷似したものが加耶時代の釜山の古墳から発掘されている。まさに騎馬民族時代の遺品だ | 豊富な鉄で作られた農具、太刀、馬具、甲冑。馬も加耶からやってきた。織物、須恵器…。庶民の生活を向上させた「かまど」や「鎌」も加耶から伝わった。加耶のこんな技術も倭人の生活スタイルを変えた。
また4世紀末から5世紀に高句麗の南下や新羅との争いによる戦乱を逃れて、後に渡来人二大勢力となる漢氏と秦氏が数千、数万の規模で渡来してきた。漢氏は安羅国、秦氏は金官加耶国から来たと思われるが、大量の人間の渡来には迎え入れる側の理解と支援が必要だったはず。秦氏には山城、漢氏には飛鳥の地が与えられ、後に漢氏は蘇我氏から可愛がられた。
おそらくもっと早く渡来していた同郷人が、倭国政府の中枢となっていたのだろう。両氏族のその後の隆盛は、庇護し引き立てる力が働いたとしか思えない。
加耶と倭国の人々の交流の歴史は、その昔のイギリスとアメリカの関係だったようにも思う。もちろん加耶がイギリスだ。
加耶は562年に滅んだが、その文化は列島に生き、残った。
【講師紹介】勝股 優(かつまた ゆう):自動車専門誌『ベストカー』の編集長を30年以上務める。前講談社BC社長。古代史万華鏡クラブ会長。奈良を愛してやまない。 |