劇場、演劇、映画など日本統治下朝鮮における近代文化は、日本から到来した。女優という存在も同じである。元々朝鮮の伝統芸能は、野外で行われる歌や踊りの類いであり、演劇性が欠如したパフォーマンスのようなものであった。従って、台本というものがあり、そこに書かれてある台詞を読み上げ、観客に伝える演技という概念がなかったのである。さらに面白いのは、日本の伝統文化である女形が、朝鮮にも存在していたことだ。女優が登場する以前、初期の新派劇団では、劇における女性の役柄を男性が演じていた。在朝日本人専用の劇場で公演された劇の形と同じである。
| 朝鮮のカチューシャ・李月華(出典=『朝鮮日報』1928年1月5日付) | そうした中、1915年に朝鮮に巡回公演に来た松井須磨子がカチューシャを演じたその翌年、朝鮮でも女形の高秀喆がカチューシャ・シンドロームを巻き起こす。その後、新派劇団で女優第1号の妓生出身の金小珍や、皇室内人出身の馬豪政が登場し、「女優」が芽生え始めた。しかし、女優の存在を大衆に認識させたのは、李月華である。やっと朝鮮にも、日本で一世を風靡した須磨子のような朝鮮カチューシャが誕生したのだ。
日本に留学した朝鮮の新女性と称する羅蕙錫は、日本で『復活』を観覧したことがあり、朝鮮での『復活』を観て「月華女史だけは、大成功だ。私は女史の天賦的な才能を羨ましく思い、舞台ごとに大成功してくださいと切望した」と感想を述べた。当時、恋愛自由、男女平等、性差別撤廃など封建的な因習を打破しようとする新しい女性たちの動きがあっても、朝鮮では職業人、知識人の女性層が脆弱だったため、日本のようには広まらなかった。このような状況下で、女性画家として積極的に活動した羅蕙錫が、「朝鮮」社会における「朝鮮」女優を見て感激したのは、当然なことであろう。
李月華は、馬豪政が映画女優第1号という説が定着するまでは、映画女優第1号として広く知られた人物である。彼女は、朝鮮総督府が製作した貯蓄奨励劇映画『月下の盟誓』(23年)で女性主人公を演じ、映画界にも進出した。映画時代が幕を上げた朝鮮で、日本人の資本援助を得て、朝鮮人監督が映画を製作し始めた。そのため女優が映画にも登場するようになったが、専門的な映画製作のシステムを確立できない貧しい状況の中、彼女らは映画女優として生きるのに苦労が絶えなかった。筆者は朝鮮映画に出演したことのある女優180名のリストを作成したが、調査の結果、女優の平均活動期間は2.36年で、活動本数は2.35に過ぎない。
朝鮮では、20年から45年までの26年間、およそ150本という映画が製作されたと言われる。122名の女優たちは、1つの作品に出演するだけで映画界を離れる者が殆どだった。活動期間6年以上、作品本数6本を超えるのは最も難しく、その条件を両方超えたのは、わずか8名程度だった。いずれも厳しい状況に耐えつつ女優の道を進み、朝鮮映画界を牽引する女優であるが、その中心に24本という最も多い作品数を誇る文藝峰がいた。
李瑛恩(芸名イ・アイ) 韓国の女優。日本大学芸術学部で、学士、修士、博士の学位を取得。主演作として『大韓民国1%』『ダイナマイト・ファミリー』などがある。 |