祖国戦線への参戦から3カ月で日本に帰還
富平地域を中心に「3・1大隊」に参加した323人は、同隊の解散により、11月末までには、200人ほどが米軍から韓国軍に入隊した。残りの人々は、富平や仁川港の米軍兵站基地にいた。中共軍に不意をつかれた国連軍の慌ただしい撤退で、ソウルを放棄することになったため、富平などの基地は閉鎖され、撤退命令が出された。
『韓国戦争時の学徒義勇軍』などによると、撤退する米軍部隊の一部は、日本に帰還することが決まっていたという。その過程で帰還を拒否する在日義勇軍らも続出した。
姜一龍と郭道容を代表に選出して、米軍に韓国軍への編入を要望した。何度かの交渉の結果、韓国軍への入隊が決まった。義勇軍の隊員らは1950年11月28日、ソウルの南大門近郊の南山初等学校にあった韓国陸軍第1補充大隊に入隊した。
勝利の目前にまで迫っていた6・25戦争の戦況は、中共軍の侵略により修羅場になった。この時期に在日義勇軍の犠牲が大きかった。
米第7師団に配属された120人近くのうち40人、第3師団に配属された52人のうち18人だけが生き残った。北進と興南撤収作戦、1・4後退などの1カ月にわたる戦闘で110人近くの在日義勇軍が戦死・失踪した。
一方で、米軍補給基地にいた在日義勇軍120人ほどは1950年12月17日、撤退する米軍部隊と一緒に、仁川から米軍輸送艦に乗船した。ほとんどの義勇軍の隊員らは、行く先もわからなかったが、群山や木浦、釜山などの後方部隊に移動すると思っていた。
しかし、実際は到着したのは北九州市の門司港だった。義勇軍は門司港から小倉に駐屯していた米軍第24師団補充大隊に移動した。そこで米軍から突然の解散命令が出され、自宅に帰るようにと指示された。
再び祖国戦線に復帰した義勇軍
この措置に承知できなかった李圭達や朴晴男など58人は1951年2月13日、横浜港から韓国海運公社の貨物船に乗って祖国戦線に戻った。
釜山に到着した在日義勇軍は、1951年2月23日に韓国陸軍の第2訓練所に入隊する前に、全員でお金を出し合って、毛布1000枚を釜山の避難民収容所に寄贈したりもした。
当時韓国陸軍の新兵訓練所は各地に散在していた。大邱の第1訓練所をはじめ、東來の第2訓練所、釜山・亀浦の第3訓練所などのように呼ばれていた。
在日義勇軍が入隊した第2訓練所は、後に陸軍下士官学校に変わった。同校を卒業して下士官になった李圭達や朴晴男、朴年圭などは、日本の植民地時代に日本航空隊にいた経歴を活かして、陸軍本部作戦局航空課に転出して、陸軍航空隊の創設に貢献した。
特に李圭達は、所定の教育を終えて、中尉に任官され、陸軍航空隊で操縦士を養成する任務についた。朴晴男も長い軍服務から中領まで昇進した。
平壌から撤退した義勇軍は仁川から釜山に
一方で米軍と一緒に平壌まで進撃した在日義勇軍たちは、中共軍の侵略で後退を強いられた。そして、遂に12月23日に米軍から全面撤退命令が出て平壌から仁川にトラックで向かった。撤退の中の米軍は、戦場にいながらも、自宅から送られてきたブドウ酒でクリスマスを祝ったりもしていた。
しかし、西部戦線の米軍と違って、東部戦線の米海兵隊と一緒に北の内陸山間部の深くまで進撃した義勇軍は、死の撤退を強いられていた。
西部戦線で米軍と車両で撤退してきた義勇軍の一部は、12月27日に仁川港に到着した。仁川に2カ月ほど待機してから釜山に向かった。釜山で米軍所属から解除され日本に帰る日を待った。 |