憲法裁判所が昨年の12月19日、統合進歩党の解散を決定した。判決の直前に第1野党である新政治民主連合の党代表が解散反対を表明するなど、反憲法勢力が執拗に抵抗したが、裁判官9人のうち8人の圧倒的賛成を得て、統進党解散と所属議員の議員職剥奪は決まった。 憲法裁判所は膨大な証拠資料を検討することなどに、法定審理期間の2倍の時間を費やした。統進党の韓国社会に対する認識、変革のための綱領上の課題と優先順位、変革の主体や主権の所在とその範囲、対象、変革の戦術的方法、目標、連邦制統一方案などを検討した。こうして憲法裁は、北韓の民族解放民主主義変革論と同じか非常に類似し、その同質性ないし類似性は、断片的、部分的範疇を超えるものだと判断した。つまり憲法裁判所は統進党綱領の「進歩的民主主義」が北韓式社会主義の対南革命の実践であり、革命と体制変革のための過程で暴力的手段を容認していることを確認したのだ。 統進党主導勢力の多くは、スパイ活動などで裁判所が有罪と判断した勢力、例えば民革党や嶺南委員会、実践連帯、一心会、韓青など主体思想を指導理念とし、北韓と連携して活動してきた反国家・利敵勢力であること、さらに、その多くが李石基主導のRO(革命組織)にも参加し、内乱関連の会合に出席したことも確認された。 特に裁判官が注目したのは、統進党の党員教育資料だった。その内容は内乱陰謀罪などで裁かれた李石基とROの暴力路線と一致し、統進党全体の危険性と利敵性を物語るものだった。北から指令さえあれば、いつでも破壊・ゲリラ活動ができるよう準備するものだったという。 もちろん、日本国内でも統進党と同じ組織が以前からあった。朝総連(特に学習組)や韓統連の核心勢力だ。従北の元祖である彼らも、平壌側によってスパイ活動や軍事的訓練まで施されたことが知られている。 大韓民国に”敵”として抵抗した勢力に対するこの歴史的判決によって、李石基の議員職承継を期待した康宗憲の野望も絶たれた。日本の大学の教壇を革命の橋頭堡にしていた康宗憲の博士論文やプロパガンダ工作活動は次の機会に紹介することにし、まず、統進党解散決定の歴史的意味を簡単に見てみよう。 「民主化」スローガンを隠れ蓑にしてきた主体思想派・従北勢力は、韓国社会がソウル五輪後に「第6共和国」に入ると、「文民大統領」を操って憲法を破壊する法律を量産させ、韓国の自由民主体制と法治を破壊してきた。憲法が禁ずる遡及立法をはじめ、裁判所の確定判決を事実上覆す「真実和解委員会」や「民主化運動補償法」など”革命的”措置が続いた。法的な再審ではなく、行政府の一委員会が決めたのだ。 金大中・盧武鉉の両大統領は公然と「選挙法を守らなくてもいい」と言ってのけ、実際に盧武鉉は大統領在任中の04年、国会から選挙法違反などで弾劾訴追された。韓米同盟の破壊や国家保安法の廃止を目論み、憲法に違反・否定する共同宣言を金正日と署名(6・15宣言と10・4宣言)し、国論を分裂、混乱させた。金日成と金正日の対南工作の最大の成功は、李承晩と朴正熙の両大統領を否定することを「民主化」と思うように韓国社会を洗脳したことだった。 「第6共和国」で進んできた左傾化に、憲法裁判所はようやく憲法的制動をかけた。従北派が主導してきた民衆独裁と北との連邦制推進を止めたこの快挙を、朴槿惠大統領ははたして北韓解放への決定的突破口としてつなげられるだろうか。 (続く) |