1949年9月8日、日本当局は「団体等規制令」により、在日同胞関連4団体に解散を命じた。暴力団体として解散対象になった4団体は、「在日本朝鮮人連盟」(朝連)、「在日本朝鮮民主青年同盟」(民青)、「民団宮城県本部」、「建青塩釜本部」だった。同時に、解散対象団体の幹部36人が公職を追放された。追放者のうち「朝連」幹部は28人で、「朝連」中央の金天海や尹槿、韓徳銖などが含まれた。
日本当局は解散を命じた「朝連」などの財産や文書なども没収した。
また、日本当局は翌月の10月19日には「朝鮮人学校閉鎖令」を下し、翌年の8月と9月には、「朝連」系新聞の「解放新聞」と「建設通信」をそれぞれ廃刊させた。
| 「朝連」下関支部の捜索 | 解散当時の「朝連」は、東京の中央総本部をはじめとし、全国都道府県に地方本部を置き、支部は632支部、分会は1705分会を持っていたとされる。
朝連が暴力団体として規制されたのは当然、ソ連・平壌・日共との関係のためだった。金日成を讃えるため書かれた北の長編小説『太陽讃歌』には、スターリンの操り人形として権力の前面に登場したばかりの金日成に忠誠を尽くした当時の韓徳銖などの姿が描かれている。
当時の状況を知る民団元老は「『朝連』は日本共産党や北支持の人たちで忠誠ゴッコをやっていた。『民団』とは殺し合いになったりする状況だった」と回顧する。
「山口県警察史」などを見れば、日本当局は、解散命令の理由としては、「朝連」がGHQの命令に反して北の国旗を掲揚した「評定河原事件」(1949年10月11日、12日)などのほか、「首相官邸デモ」(1946年12月20日)、「神戸朝鮮人学校事件」(1948年4月23日)、「京都警察官暴行事件」(1949年6月15日)、「福島県平市警占拠事件」(1949年6月30日)、「下関騒擾事件」(1949年8月20日)などの不法行為を挙げている。
解散命令の契機になった「下関騒擾事件」の背景を見ても、そこには、韓国政府の在外国民登録令施行を阻止しようとした「朝連」の暴力的挑発があった。「朝連」は「民団」抹殺を闘争方針に掲げていた。
それが小野田市内で の独立記念行事(8月15日)での「民団」と「朝連」の衝突(小野田事件)に発展する。
そして同年8月20日午前2時頃、下関市内の「民団」側の集落に「朝連」メンバーら200人が竹やりやこん棒を持って襲撃し、「民団」団員十数人に傷害を与え、家屋19戸を破壊して金品も略奪する「下関騒擾事件」が起きた。当時日本の警察は1000人を動員して、被疑者200人を検挙した。
当時を知る地元の民団関係者は「弟が『朝連』の奴らに腕を切られて、半殺しの目に遭った。相手とは絶対に相容れない」と振り返る。
山口県下では当時、「民団」団員1500人に対して、「朝連」盟員は2万2000人だったともされる。「朝連」は、下関市の県本部と23支部、157分会(1万9398人)、「民青」は県本部のほか22支部、4分会(106人)があったという。「朝連」側が数的にも圧倒的優勢で両者の対立が日増しに増える中で、民団の被害は大きかった。山口県の「朝連」「民青」事務所閉鎖と財産没収は9月8日午前11時に始まり、同夜半には主な措置は終わった。同月13日には最下部組織まで完了した。 |