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2014年06月11日 00:00
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在日の従北との闘争史~民団結成から韓国戦争勃発まで⑥~
元心昌義士と統一運動の推進

在日同胞初の「義士」称号


元心昌義士は6・25動乱の民族的悲劇の経験から、1955年1月に左派を入れて「南北平和統一促進協議会」を結成した。
「統一朝鮮年鑑1964」によると、「統一協議会」には、「民戦」(『朝連』の後身)の人士と「民団」の指導的人士が参加した。当時の民団顧問全員と前・元執行部の大部分が参加した。主な顔ぶれは、元心昌、徐相漢、裵正、権逸、白武、鄭寅勲、朴春琴、朴準、李禧元、金学鳳である。後に権逸氏は第25、26、28、29代、李禧元氏は第31、32代の民団中央団長を歴任している。
しかし、生前の元義士を知る人によれば、「統一協議会」は結成されたものの、元義士は東京・神田の事務所に看板を立てて一人で活動していた。
そんなときに韓国から日本に亡命し、韓国の立場で統一運動を推進するための新聞「統一朝鮮新聞」(現統一日報)の初代社長になる李栄根氏と出会うことになる。
元義士と李氏の統一運動理論は違っていた。元義士は心情的に同じ民族同士の統一運動を推進していた。理論的には実践的統一理論に欠けていた。李氏は韓国の立場にたった科学的かつ実践的な統一運動の推進を行った。両氏は、互いに侃々諤々の議論を交わしたが、元義士が李氏の運動理論に共鳴し、一緒に行動することになった。
そして、元義士と李氏は共に1959年1月に統一に対する正しい認識を広めるため、「統一朝鮮新聞」を創刊する。それだけではなく、二人は統一運動を推進する組織体として、65年7月「韓民自統」(韓国、民族自主統一同盟)、66年8月「韓民自青」(韓国、民族自主統一青年同盟)を組織し、韓国の立場にたった統一運動を推進した。
元義士を知る人の話によると、60年代末から70年代初めにかけて、朴正煕大統領とも親しい関係を構築したという。元義士は1971年7月4日、享年65歳で亡くなった。韓国政府からは在日同胞初の「義士」の称号を受けた。後に建国勲章も授与された。

二人が眠る大行寺

東京・あきる野市の大行寺には、元心昌義士と李栄根氏のお墓がある。
また、大行寺は6・25動乱で戦死した在日学徒義勇軍の忠魂碑もあり、軍人会関係者などは毎年、顕忠日追念式後に参拝している。元義士は、民団中央団長時代に多くの反対意見もある中で、在日学徒義勇軍の派遣を決断し実行した。
軍人会の李奉男会長は「元心昌氏が事務総長をしていたときは、給料もでなかった。日本人の奥さんが東京・新宿で『憩』という名前の焼き鳥店をやりながら活動を支えた」と語る。
当時「建青」に参加していた軍人会の朴鳳珉副会長は「元氏は、おとなしい人で、ジェントルマンだった。あまり出しゃばるような人でもなかった」と振り返る。
一方で民団中央の辛容祥常任顧問は「解放直後に尹奉吉義士のお墓を探したのは元心昌氏だった。お墓のある村や場所は、ある程度わかっていたが、はっきりした場所がわからなかった。元氏が村人に『わからなければ、村の墓を全部ひっくり返す』と言ったら、村の年寄りが一人出てきて場所を教えた。それで遺骨が見つかり、韓国に持って帰った」と回顧した。
元義士は、おとなしい人だったが、強靭な信念の持ち主だった。

2014-06-11 4面
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