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2014年06月04日 00:08
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在日の従北との闘争史 ~民団結成から韓国戦争勃発まで⑤~
「民団」創団に貢献した元心昌義士

元心昌義士と「民団」
生前の元心昌義士(1906年~1971年)を知る人は「『民団』を実務的に作ったのは、元心昌先生のグループだった。元先生は民団初代中央団長の朴烈氏のように自己アピールがうまい人ではなかったが、『民団』の創立に大きく貢献した人物だった」と話す。
元心昌義士
 元義士は1906年韓国京畿道平澤で生まれた。
1919年3月1日に起きた「3・1運動」を経験した。この時の経験が抗日独立運動に参加する決定的な契機になった。「上海3大義挙」の一つでもある1933年3月17日に「六三亭義挙」で、元義士、白貞基義士、李康勲義士の3人で、日本の駐中公使有吉明を殺そうとしたが、未遂に終わり逮捕された。これにより1945年の解放まで刑務所に投獄された。
解放後は釈放され、1946年1月20日「民団」の前身でもある「建同」中央総本部結成に参加する。朴烈氏が初代委員長で、元心昌氏と李康勲氏が副委員長となる。同じ年の10月3日には、「民団」中央本部が結成されるが、朴烈氏が初代団長、李康勲氏は副団長、元義士は事務総長になる。朴団長や李副団長が、「民団」の全国組織化のために東奔西走する中で、「民団」を実質的に支えたのは、元義士だった。
「民団」結成後には在日同胞の生活権を守る運動も盛んになる。「民団」は1947年3月31日に司法的保護対策として、「在日朝鮮居留民団司法育成会」を創立する。ここでは朴団長が会長、李副団長と元義士の2人が副会長に就任している。
また、「民団」は1947年4月15日、在日同胞の生活安定対策のために「在日本朝鮮居留民団協同組合」を発足させる。
ここでは、元義士が組合長になり、「朝連」との闘争が続く中で、本格的に「民団」も在日同胞の生活権保護に向けた具体的活動を展開する。
元義士は、初代事務総長を務めた朴烈初代執行部の期間(1946年10月3日~1947年5月23日)に「民団」の土台を作った。
6・25動乱と元義士
1950年の6・25動乱を前後して、「民団」は青年学徒志願軍派遣問題や救援物資集め問題などで、組織的に混乱と内部紛争に明け暮れた。それを収拾するため、いわゆる「4・3大会」と呼ばれる1951年の民団中央大会で、元義士が第11代中央団長(1951年4月3日~1952年4月3日)に就任する。その後、3人の団長(元心昌、金載華、金光男)の臨時執行部だったが、第12代団長も務めた。
しかし、6・25動乱の混乱期に「民団」の革新をめざして登場した元団長だったが、「民団」の体質改善はできなかった。
元義士は6・25動乱を中止させるために韓国にも行った。味方が落とした爆弾でも多くの人たちが亡くなっている惨状を訴え、とにかく同じ民族同士での殺し合いをやめさせることを求めた。
そして、元義士は6・25動乱による民族的悲劇の経験から、1955年1月30日に左右を一緒にし、平和統一を実現しなければならないという想いから、「民団」と「民戦」(「朝連の後身」)の人士が参加した「南北統一促進協議会」を結成する。

2014-06-04 4面
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