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2014年05月14日 00:00
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【寄稿】体制と反体制 済州道4・3事件 韓国現代史研究家・金一男
ソ連が望んだ「衛星国」としての朝鮮

韓国現代史研究家・金一男

 

 「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という言葉がある。ヘーゲル(1770~1831)が『法哲学』で述べ、一般には、「現実的なものはすべて合理的であり、合理的なものはすべて現実的である」と解されている。
裏返せば、「非現実的なのものはすべて非合理なものであり、非合理なものはすべて非現実的である」となる。事象形成のダイナミズムと事物の存在根拠に関するこの命題は、歴史学的には一定期間内の一定事象に関する総括的判断として承認される。
人々のその時々のさまざまな主観的願望にもかかわらず、歴史は非合理なものの実在化を許さない。また、ひとたび実在化した事象もまた、やがてはその実在を解消されうる。一つの事物の存在には、存在を持続するに足る十分な歴史的合理性が要求されるのである。
第2次世界大戦が終結した1945年8月、朝鮮半島(韓半島)には二つの政治的潮流が存在した。市場経済に基づいて自由民主主義体制を樹立せんとする勢力と、社会主義に基づく共産政権を打ち立てんとする勢力である。
当時の世界は、アメリカを中心とする自由主義圏とソ連を軸とする社会主義圏とに分かれ、いわゆる「東西冷戦」体制の下にあった。
それから46年を経過した1991年末までに、東欧社会主義圏崩壊の流れの中で、1917年以来世界に君臨した社会主義帝国としてのソ連も完全解体した。また、もうひとつの社会主義大国であった中国は、すでに70年代末からそれまでの中央指令型の統制経済体系を捨て、市場経済化の道をたどっていた。
これらの事実が示すものは、社会主義帝国ソ連の支配にはその持続を可能ならしめる現実合理性が体制的に欠如していたという歴史的真実である。
私たちはこれから、わが半島におけるいくつかの重要な出来事を振り返る作業を進めるが、まずは、上記の期間中にソ連の存在が韓半島に落としていた影をたどることになる。 

(1)南北統一選挙を拒んだソ連と北権力
1945年8月の時点で、韓半島は「東西冷戦」体制下における最前線として南北に分断され、朝鮮における政治的闘争のエネルギーは最南端の島、済州道に集約されていた。
ヤルタ会談でも信託統治について話し合われた
米軍政下に自由民主主義による独立政権の樹立を目指す勢力が体制勢力として存在し、一方で、これを阻止しようとする反体制共産勢力が、北部を支配するソ連の軍事力を背景として対峙していた。
南部における反体制側の全国的中央組織は、1946年11月に朝鮮人民党、朝鮮共産党、南朝鮮新民党の3党が合党して南朝鮮労働党(南労党)に一元化された。
もともとは、中道左派である朝鮮人民党の呂運亨が「民族統一のための民主陣営の主導体」として提案したものだった。だが、朝鮮共産党の朴憲永がフラクション活動により朝鮮人民党を乗っ取り、呂運亨を排除して主導権を握ったものである。共産党のいわゆる「統一戦線戦術」の実態を示す出来事であった。
のちに、南労党は1950年6月の朝鮮戦争の1年前、1949年の6月に北朝鮮労働党と合党し、朝鮮労働党となる。この朝鮮労働党の成立については、次の2つの事柄を記憶しておこう。
南北の労働党の合党によって朝鮮労働党は「全朝鮮の前衛」を自称することとなり、彼らがその1年後に朝鮮戦争を全面開戦する理論的根拠とした。また、朝鮮労働党に合流した南労党の幹部たちは、朝鮮戦争後にほぼ全員が北朝鮮労働党系の謀略によって「米帝のスパイ」の汚名を着せられ、粛清されている。
済州道における二つの勢力の最初の衝突は1947年3月1日に起こった。南労党を中核とする済州島人民委員会が済州市内でのデモで官憲と衝突し、警察側の発砲によりデモ隊側に数人の死傷者が出る。この出来事には明確な政治的背景があり、決して偶然に起こったことではない。
当時、植民地から解放された朝鮮の独立をめぐって米ソ共同委員会が開かれていた。米ソ共同委員会は「朝鮮の政党・社会団体との協議による臨時政府の樹立」を目指したが、米ソは「政党・社会団体」の適用範囲をめぐって対立していた。
一方、国内では「信託統治」の是非をめぐって全国的な政治対立が広がっていた。右派が臨時政府樹立による即時独立を主張して「信託統治」に反対したのに対し、左派はソ連の推進する「信託統治」の受け入れを支持し、「段階的独立」を主張していた。
この第2次米ソ共同委員会で米国は、南北それぞれに立法機関を設置したうえで統一的に臨時政府を公選するという提案を最終段階で行った。しかし、ソ連側は南北分裂を助長するという口実でこれを拒否した。
この結果、第2次米ソ共同委員会は「済州道4・3事件」が起きた半年後、1947年の10月20日に決裂している。

(2)まやかしの「土地改革」で民心煽る
済州市のデモは、事実上、米軍政に反対して「信託統治」を支持し、米ソ共同委におけるソ連の立場を支持する行動の一環として行われた。ちなみに朝鮮の北部では共産政権の権力形成が足早に進められていて、この前年の1946年3月5日に北朝鮮臨時人民委員会が「北朝鮮土地改革法」を公布している。
「北朝鮮土地改革法」の結果、朝鮮の北部では「無償没収・無償分配」の原則により全耕地の半分に相当する富農と親日派の土地が没収され、小作農民に分配された。貧農たちはそれぞれ土地の分配を得て自作農となり、農民たちの労働意欲の高まりと共に北部の農業生産力は向上しはじめていた。
北部での「土地改革」がもたらした左派的幻想は南朝鮮全域に拡大し、社会主義に対する支持と反米意識が拡散していた。済州道においても事情は同じであり、南労党の細胞組織が指導したこのデモは、米ソ共同委員会におけるソ連の立場を支持するものであったと同時に、北朝鮮臨時人民委員会と社会主義に対する支持の行動でもあった。
しかしながら、北韓での「土地改革」による全農民の自作農化は一時的なものであった。というよりは、まったく詐欺的なものであった。
いったんは「無償没収・無償分配」原則によって農民たちに土地が与えられたものの、1958年までにはすべての土地が再び農民たちの手から取り上げられた。社会主義政策により、すべての土地が「共有化」されたのである。
このため、自分の土地を失った農民たちの労働意欲は急速に衰え、北韓における農業生産は疲弊の一途をたどってついに回復することなく、今日にまで至る。
いわゆる「主体農法」によって過剰な密植が行われ、また耕地が乱開発されて北部の森林体系が全国的に破壊されたことも、北部における農業が疲弊する重要な要因となった。
1947年3月1日の済州市での衝突は、同10日の抗議ゼネストに発展した。済州道での大規模な流血はこの後で起こる。
米ソ共同委の決裂後、米国はやむなく朝鮮問題を国連に回付する。そして1947年11月14日に開かれた第2次国連総会は、「国連臨時朝鮮委員団」の設置とあわせて「1948年3月末までの国連監視下での全朝鮮での自由選挙、国会と政府樹立後の米ソ両軍の撤収」を決議した。
こうして、「信託統治なき独立」へのロードマップは敷かれた。
しかし、ソ連は全国的な自由総選挙準備のための国連臨時朝鮮委員団の北部への入境を拒否した。朝鮮の統一と独立に対するあからさまな妨害であった。自由な総選挙によって朝鮮北部の「拠点」を失うことを、ソ連は何よりも恐れたのである。
当時、スターリン率いるソ連とその国際組織であるコミンフォルムは、周辺諸国に社会主義政権を樹立してこれを衛星国化していく、いわば「拠点拡大」路線をとっていた。
地域人住民の利害や事情にはおかまいなく、ソ連の政治的必要によって各地の左派勢力を動員し、強引にその「陣地」を確保する戦術を取っていた。建て前は「朝鮮人民の統一と独立」をかかげながら、事実上、ソ連は朝鮮における「統一と独立」の実現を拒んだのである。
ソ連が必要としていたのは「人民のための統一された独立国」ではなく、あくまでも社会主義帝国体制拡大の「拠点」であり、ソ連のための「衛星国」であった。


(3)流血に対して問われるべき南労党の責任
国連臨時朝鮮委員団の受け入れを拒否する代案としてソ連が掲げた提案は、「米ソ両国が撤収した後に朝鮮人民自身が解決する」というものだった。
先の「土地改革」の実施でもわかるとおり、すでに南北で、とりわけ北部で軍事力を伴う実質的な政府権力が強固に形成されていた情勢の中で、この提案は「南北間の内戦」を促すに等しいものだった。事実この3年後、米ソ両軍の撤収によって生じた軍事的空白を利用し、ソ連と結託した朝鮮労働党は同族を相手に無残な全面戦争を引き起こすのである。
ソ連の国連臨時朝鮮委員団受け入れ拒否の事態に、国連小総会はやむなく「可能な地域だけの選挙の実施」を決定した。その結果、朝鮮南部で総選挙の準備がなされていく。
南労党はソ連による国連臨時朝鮮委員団の受け入れ拒否を批判することなく、国連小総会の決定を「南だけの単独選挙」だと非難した。以後、いわゆる「単選反対」が彼らの主要スローガンとなる。
「単選反対」を名分にして北部権力を擁護するために南労党側が選択した戦術が、小さな島における「武装蜂起」であった。
多くの犠牲を生んだ4・3事件
1948年4月3日未明、武装した南労党の反乱軍が島内の12の警察署を一斉に攻撃した。警察官を殺害するとともに、公共機関を襲撃し、彼らが右派とみなした多数の人士たちに対するテロを次々に敢行し、「人民裁判」で処刑していった。島民の命を盾にとって武装ゲリラ戦術を展開したのである。
武装反乱軍と鎮圧軍の攻防は長期におよび、南労党組織が選択した武力闘争の結果、6万人ともいわれる島民の犠牲を払って無謀な武装反乱は鎮圧された。
そもそも、体制側とのせめぎあいにおいて反体制側が武器を取るかどうかは、変革運動にとってはその命運にかかわる重大な事案である。体制変革のために武器を取る以上、最小限の犠牲で確実な勝利が得られる保証がなければならないはずである。条件も考えずに無謀な武力闘争を展開して敗北したとすれば、その犠牲の責任は反体制側の戦術に帰されるべきだと考えなければならない。
済州道4・3事件は哀悼すべき痛ましい事件である。しかし、その流血の責任は無謀な武装蜂起を起こして体制側を軍事的に挑発した南労党細胞組織にあるというべきである。
彼らの思想においては、その戦いによって「アメリカ帝国主義」と戦い、「社会主義の祖国」ソ連邦を守り、北の「人民政権」を守るとの意識が優先されていたはずだ。それが当時のコミュニストの一般的な公式だった。だがそこには、変革を志す者の原点であるべき「同胞の生命を守る」という意識はなく、「人命の尊厳」という観念もなかったのだ。
あのような小さな島でゲリラ闘争とは、あまりにおそまつな「思想」であった。しかも、武力抗争に敗れた最高幹部たちは島民たちと運命を共にすることなく、自分たちだけ「陸地」(内地)に逃れたとされる。人民の犠牲を顧みないこのような無謀さは、この数年後に「朝鮮戦争」として、朝鮮労働党によって全民族的規模で再現される。
1950年6月25日の未明に開始された朝鮮戦争では、朝鮮労働党による全面戦争開戦によって、少なくとも200万人以上の人命が直接・間接的に犠牲となった。
だが、いまだにその責任は取られていない。局部的な不祥事を誇張することで、または戦争被害者を装うことで、その戦争責任を回避するための努力が当事者たちによって今も続けられている。
「済州道4・3事件」の総括は、「朝鮮戦争」の総括とともにまだ終わっていない。
「済州道4・3事件」と「朝鮮戦争」は、連続した一つの出来事の始まりと終わりであった。「済州道4・3事件」は単なる偶発的な流血事件ではない。「済州道4・3事件」において問われるべきは、北朝鮮労働党と結託した南労党の極左冒険主義の過ちでなければならないし、その人命軽視の思想でなければならない。

2014-05-14 3面
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