東日本大震災から6日後の17日、福島第1原発がある双葉郡大熊町から、20代後半のある女性が脱出した。大熊町で被災してから約1週間、現地で体験した出来事を聞いた。(溝口恭平)
地震発生時、私は大熊町にある自宅にいました。揺れは長かったですが、木造2階建ての建物の一部にひびが入った程度で、すぐに自宅から1・5㌔ほど離れた場所で仕事をしていた母が戻ってきました。
地震直後から停電し、電話もつながりませんでした。安否を気遣う携帯電話のメールを受信できたのは、午後10時すぎでした。ラジオで情報収集していると、町のパトロールカーが巡回してきて、公民館か自家用車内で寝るように案内していました。
夜中には原発から3㌔以内の住民に退避命令が届きました。3㌔圏外にある町役場では炊き出しがありました。私と母は、近くの小学校の校庭に自家用車を停め、そこで一夜を明かしました。
大熊町の人は翌朝、西隣の田村市にある都路という地区に逃げるよう指示されました。大熊町はバスを出していましたが、隣接する双葉町は、入り組んだ路地が多く、自家用車での移動を強いられたようです。
内陸の田村市や郡山市につながる県道288号線は大変な混みようで、午前中から田村市内のガソリンスタンドには行列ができていました。その後郡山まで退避しましたが、そこでもガソリンは不足していました。避難所を転々としながら、何とか親族が住む会津若松市に着いたのは13日の朝でした。
被災地では東京電力の人たちへの不満が高まっていると思います。地震当夜に泊まった小学校では、避難用のバスから降りてきた東電職員に冷たい視線が注がれていたのが印象的でした。
大熊町は「原発の町」です。小学校のときから「原発は安全だ」といわれ、原発内の社会科見学もあります。事故など想定していなかったはずです。対応を見るとそうとしか考えられません。
現在、避難勧告の出ているエリアの人は、住んできた町ごと失う危機に面しています。農家や酪農家は、特に大変です。職も無くし、ローンばかり残った人も多いはずです。この不況で次の仕事のアテも無い状況で、別の土地に引っ越して人生を立て直そうとする気力がある人はどれ位いるでしょうか?
私は、育った町が廃墟のように残り、後年テレビや新聞報道で取り上げられるのを見たくありません。もしも戻れないならば、すべて焼き尽くしてほしいと思います。
政府や東電は、今なら簡単に多くの人を誤魔化せると思います。できれば住んでいた場所に戻りたいと願う人にとって、安全に戻れるという情報を信じる方が、2度と戻れないという情報を信じるよりも楽です。政府や原発が、情報の隠蔽やデータ改ざんをしても信じるかもしれません。
外国の関連機関や原子力のエキスパート、メディアには日本の政府や原発、メディアに目を光らせてほしい。専門家を派遣して、状況を自国で掴んで発信してほしい。
とにかく私たちに必要なのは信頼できる情報です。もう日本政府や東電は信頼できません。福島県民の忍耐は限界にきてしまったのです。 |