ログイン 新規登録
最終更新日: 2024-07-23 12:58:08
Untitled Document
ホーム > アーカイブ > 小説
2010年01月25日 11:36
文字サイズ 記事をメールする 印刷 ニューススクラップ
 
 
序曲(52) 金鶴泳

 洋子が祥一の引越し先のアパートの部屋を見に、西荻窪にやってきた日は、前日まで空を覆っていた雲が消え、からりと晴れ上がっていた。
 どうやら、梅雨は明けたようだ。空にまぶしく光っている太陽は、すでに夏のそれだった。ところどころに高層雲の塊が浮いている空は、すでに夏の空の青さを帯びていた。
 祥一は、午後一時ちょうどに、駅の傍にある喫茶店「L」に行った。入口のすぐ近くに、薄く紫色がかった半袖のブラウスと、深いベージュ色のスカートを身につけた洋子が坐っていた。
 洋子は、律儀なほどに約束の時間を守る女である。約束の時間の、少なくとも五分前には指定の場所に着いている。
 教養学部のとき、ある同胞の女子学生がいた。同胞学生のサークルである「トラジ会」のメンバーで、仏文科進学志望の文科の学生だった。
 トラジ会は、教養学部に在籍している、イデオロギーを抜きにした同胞学生の親睦のためのサークルで、メンバーは総勢二十人たらず、そのうち常時集まりに顔を出していたのは七、八人ぐらいのものだったが、祥一も、その女子学生も、常連組に属していた。
 当初、彼は、彼女の利発そうな風貌に惹かれ、彼女にちょっと関心をおぼえたものだが、ある日、つぎのトラジ会の会合場所を打ち合せるために、構内の喫茶店で二人だけで会う用事があった。
 祥一は、約束の時間の十分ほど前に喫茶店に行った。彼女は二十分ばかり遅れて姿を現わした。


 その点は、祥一は、別に意に介しなかった。何かの都合で約束の時間に遅れることはよくあるものだ。だが、彼が、お互いの気分をほぐすといったほどの意味で、ごく軽い気持で、
「遅かったじゃないですか。三十分も待ちましたよ」
 といったとき、彼女はすました顔で、こう応えた。
「わたしは、約束の時間にくることはないの。早くて、約束の時間の五分すぎね。今日はちょっと遅れてしまったけれど」
 彼は、彼女の言葉に高慢さを感じた。少しでも相手を待たせては悪い、という意識がまったく欠けている。彼は、彼女に微かに反発をおぼえた。彼女に対する関心が、にわかに色褪(あ)せて行った。
 あの女子学生が五分後の女だとすれば、洋子は、いわば、五分前の女である。この五分の違いの意味はかぎりなく大きい、といつだったか彼は考えたことがある。
 祥一が「L」の入口を入って行くと、アイスコーヒーを前に坐っていた洋子は、膝の上のハンドバッグを脇に置いて立ち上がった。そしてさわやかな微笑を浮かべながら頭を下げ、挨拶した。親密な関係になっているはずなのに、まだ洋子は、ときどきそのようにあらたまった調子で挨拶することがある。
 仕事の癖が、つい出てしまうのだろうか。それとも、いまのは、ひさしぶりに顔を合せた懐かしさをこめてのものだろうか。
「やあ、しばらく」
 と、祥一は洋子の向かいの席に腰を下ろした。
「ほんとうに」
 相変わらず微笑を湛(たた)え、洋子はしげしげと祥一の顔を見つめた。
「お元気?」
「元気だよ」
「お引越し、たいへんだったでしょう」
「たいへんというほどでもなかったよ」

1984年8月31日4面掲載

1984-08-31 4面
뉴스스크랩하기
小説セクション一覧へ
ソウルを東京に擬える 第31回 居酒...
韓商新会長に柳和明氏
金永會の万葉集イヤギ 第17回
金永會の万葉集イヤギ 第18回
金永會の万葉集イヤギ 第19回
ブログ記事
マイナンバーそのものの廃止を
精神論〔1758年〕 第三部 第28章 北方諸民族の征服について
精神論〔1758年〕 第三部 第27章 上に確立された諸原理と諸事実との関係について
フッサール「デカルト的省察」(1931)
リベラルかネオリベか
自由統一
金正恩氏の権威強化進む
北韓が新たな韓日分断策
趙成允氏へ「木蓮章」伝授式
コラム 北韓の「スパイ天国」という惨状
北朝鮮人権映画ファーラム 福島市で開催


Copyright ⓒ OneKorea Daily News All rights reserved ONEKOREANEWS.net
会社沿革 会員規約 お問合せ お知らせ

当社は特定宗教団体とは一切関係ありません