祥一がT大学に入り、洋子がN化粧品会社に就職して、二人は相前後して敦賀から上京したわけだが、二人の交際がはじまったのは、上京して半年ほど経ってからである。
洋子が東京のN化粧品会社に就職が決まったことは、高校卒業直前、卒業式の日に彼女から鬼胡桃(おにぐるみ)を贈られる前に、誰からともなくきいて知っていたが、それ以上は何もわからなかった。N化粧品会社という名前も彼のはじめてきくもので、東京のどの辺にあるのかもわからなかった。知ろうともしなかった。やはり、彼はまだ洋子に何の関心も向けていなかったわけである。東京の会社に就職したというからには、あの女生徒も、卒業したら上京するわけか、とちらっと思っただけだった。
卒業式の日に、その洋子から思いがけなく大学入学祝いとして鬼胡桃を贈られ、彼はびっくりしたのだったが、そのとき、彼は、すでに洋子がN化粧品に就職したと知っていたにもかかわらず、「ありがとう」とひと言札をいっただけで、洋子の就職を祝う言葉は彼の口から何も出なかった。祝いを述べる気持のいとまがなかった。
| |
彼女がすぐに立ち去ってしまったせいもあるが、それ以上に、彼女の突然の贈物の意味について、心の中で首をかしげるしか、そのときの彼には能がなかった。彼の許を立ち去り、他の女生徒のグループに加わって話し込んでいる洋子を、彼はただぼんやり眺めていただけだった。
洋子とは、それっきりになっていた。彼は四月の上旬に上京して、湯島に下宿しはじめたが、同じように上京しているはずの洋子はどこに住んでいるのか、まるでわからなかった。
洋子が忠告してくれたごとく、彼は、親指の皮をむしる癖を矯(た)めようと、鬼胡桃を三個、常に手にするようになった。彼の方でも、この奇妙な、というより醜い悪癖を、何とか直したいと思っていたのだ。そして、鬼胡桃を握り、擦(す)り合せていると、たしかにその悪癖は少しずつ是正されて行くようだった。
左右どちらかの手に鬼胡桃を握っていると、親指の皮は多少むきづらくなるのである。それに、鬼胡桃を擦り合せ、音を鳴らしていると、不安定な心持が、多少は紛れるような気がするのである。
何とかこの奇癖を廃(や)めたいという思いも手伝って、彼は常時鬼胡桃を握るようになった。下宿で机に向かっているときも、外を歩いているときも、大学での授業中でさえ、周囲の邪魔にならぬ程度の弱い音を掌の中で響かせつつ、講義を聴いていた。
鬼胡桃を鳴らしているとき、しばしば彼は、卒業式のあの日、顔を赧(あか)らめながらそれを贈ってくれた洋子を思い出した。思い出しては、自分でもはっきりと名状できない、何か甘いものを感じた。けれども、それは恋ともいえない、極めて漠然とした感情だった。
だいいち、彼は、洋子がどういう女性か、まったくといいほど知らない。鬼胡桃を贈ってくれたとき、ほんの一分たらず、正面から向き合っただけである。ただ、彼女が鬼胡桃の入った袋を差し出し、
「これでも握って、指の皮をむしる癖をやめて下さいな」
恥じらいの色を浮かべてそういったときの、彼女の澄んだ目が変に印象に残っていた。
澄んだ目が潤いを含んでいた。彼女を思い出すとき、よく彼は、その目の潤いが自分の心の中にまでひろがってくる気がした。
月日とともに、彼は洋子のことが気になり出した。
1984年8月24日4面掲載 |