ログイン 新規登録
最終更新日: 2024-07-23 12:58:08
Untitled Document
ホーム > アーカイブ > 小説
2009年11月16日 09:49
文字サイズ 記事をメールする 印刷 ニューススクラップ
 
 
序曲(47) 金鶴泳

 祥一がT大学に入り、洋子がN化粧品会社に就職して、二人は相前後して敦賀から上京したわけだが、二人の交際がはじまったのは、上京して半年ほど経ってからである。
 洋子が東京のN化粧品会社に就職が決まったことは、高校卒業直前、卒業式の日に彼女から鬼胡桃(おにぐるみ)を贈られる前に、誰からともなくきいて知っていたが、それ以上は何もわからなかった。N化粧品会社という名前も彼のはじめてきくもので、東京のどの辺にあるのかもわからなかった。知ろうともしなかった。やはり、彼はまだ洋子に何の関心も向けていなかったわけである。東京の会社に就職したというからには、あの女生徒も、卒業したら上京するわけか、とちらっと思っただけだった。
 卒業式の日に、その洋子から思いがけなく大学入学祝いとして鬼胡桃を贈られ、彼はびっくりしたのだったが、そのとき、彼は、すでに洋子がN化粧品に就職したと知っていたにもかかわらず、「ありがとう」とひと言札をいっただけで、洋子の就職を祝う言葉は彼の口から何も出なかった。祝いを述べる気持のいとまがなかった。


 彼女がすぐに立ち去ってしまったせいもあるが、それ以上に、彼女の突然の贈物の意味について、心の中で首をかしげるしか、そのときの彼には能がなかった。彼の許を立ち去り、他の女生徒のグループに加わって話し込んでいる洋子を、彼はただぼんやり眺めていただけだった。
 洋子とは、それっきりになっていた。彼は四月の上旬に上京して、湯島に下宿しはじめたが、同じように上京しているはずの洋子はどこに住んでいるのか、まるでわからなかった。
 洋子が忠告してくれたごとく、彼は、親指の皮をむしる癖を矯(た)めようと、鬼胡桃を三個、常に手にするようになった。彼の方でも、この奇妙な、というより醜い悪癖を、何とか直したいと思っていたのだ。そして、鬼胡桃を握り、擦(す)り合せていると、たしかにその悪癖は少しずつ是正されて行くようだった。
 左右どちらかの手に鬼胡桃を握っていると、親指の皮は多少むきづらくなるのである。それに、鬼胡桃を擦り合せ、音を鳴らしていると、不安定な心持が、多少は紛れるような気がするのである。
 何とかこの奇癖を廃(や)めたいという思いも手伝って、彼は常時鬼胡桃を握るようになった。下宿で机に向かっているときも、外を歩いているときも、大学での授業中でさえ、周囲の邪魔にならぬ程度の弱い音を掌の中で響かせつつ、講義を聴いていた。
 鬼胡桃を鳴らしているとき、しばしば彼は、卒業式のあの日、顔を赧(あか)らめながらそれを贈ってくれた洋子を思い出した。思い出しては、自分でもはっきりと名状できない、何か甘いものを感じた。けれども、それは恋ともいえない、極めて漠然とした感情だった。
 だいいち、彼は、洋子がどういう女性か、まったくといいほど知らない。鬼胡桃を贈ってくれたとき、ほんの一分たらず、正面から向き合っただけである。ただ、彼女が鬼胡桃の入った袋を差し出し、
「これでも握って、指の皮をむしる癖をやめて下さいな」
 恥じらいの色を浮かべてそういったときの、彼女の澄んだ目が変に印象に残っていた。
 澄んだ目が潤いを含んでいた。彼女を思い出すとき、よく彼は、その目の潤いが自分の心の中にまでひろがってくる気がした。
 月日とともに、彼は洋子のことが気になり出した。

1984年8月24日4面掲載

1984-08-24 4面
뉴스스크랩하기
小説セクション一覧へ
ソウルを東京に擬える 第31回 居酒...
韓商新会長に柳和明氏
金永會の万葉集イヤギ 第17回
金永會の万葉集イヤギ 第18回
金永會の万葉集イヤギ 第19回
ブログ記事
マイナンバーそのものの廃止を
精神論〔1758年〕 第三部 第28章 北方諸民族の征服について
精神論〔1758年〕 第三部 第27章 上に確立された諸原理と諸事実との関係について
フッサール「デカルト的省察」(1931)
リベラルかネオリベか
自由統一
金正恩氏の権威強化進む
北韓が新たな韓日分断策
趙成允氏へ「木蓮章」伝授式
コラム 北韓の「スパイ天国」という惨状
北朝鮮人権映画ファーラム 福島市で開催


Copyright ⓒ OneKorea Daily News All rights reserved ONEKOREANEWS.net
会社沿革 会員規約 お問合せ お知らせ

当社は特定宗教団体とは一切関係ありません