西荻窪に引越してきて一週間ほど後、祥一ははじめて伊吹と一緒に夕食に出かけたのだが、いつものように河野屋に行くのだとばかり思っていたら、
「今夜は河野屋ではなく、別のところに行きましょう」
通りに出たところで伊吹はいった。
「別のところって……」
「駅前通りにキッチンリバーという洋食屋がありましてね、そこの肉が案外いいんですよ。金さんはどうですか、肉は好きですか」
「好きですよ」
「じゃあリバーに行きましょう」
肉の質の善し悪しについてまるで関心のない祥一には、伊吹が肉の質について云々していること自体、ひとつの発見のように思われた。風采(ふうさい)に似合わず、彼は美食家なのだと思った。
「魚より肉の方が好きですか」
と祥一がきいた。
「肉の方が好きですね。河野屋の魚は、ときどき生煮えで出されるから閉口するんですよ」
梅雨たけなわの感じの雨が降っていた。アパートを出る際、伊吹は部屋から傘を持ち出してきたのだが、祥一のが普通の洋傘なのに、伊吹のは古ぼけた蛇の目傘だった。何から何まで変わっている学生だと、祥一はあらためて思った。履物も祥一が雨靴なのに、伊吹は相変わらず素足にゴム草履である。
二人はしばらく黙ったまま歩いた。祥一は、引越してきて二日目の晩のことを思い出していた。
その晩、祥一は、引越し作業を手伝ってくれた礼に、岡田と伊吹を部屋に呼び、コーヒーとケーキをご馳走した。そのときに伊吹は、本棚に並んでいる本を見回しながら、志賀直哉全集と太宰治全集とが隣り合せに並んでいるのを不思議がったのだ。
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「志賀直哉は面白いですか」
「『暗夜行路』がいいね」
「『暗夜行路』のどういうところが」
伊吹の顔は不可解そうだった。
「どういうところがって……」
祥一はちょっと返答に窮し、しばらく考えてから、
「道を求めている主人公の姿勢に惹かれるのかなあ」
「そうですが」
伊吹の顔は依然不可解そうだった。
「しかし、『暗夜行路』のどこに暗夜があるんですかねえ」
中野重治もどこかで同じようなことを書いていたのを祥一は読んだことがある。
「主人公が暗夜と思っているんでしょう。思っているから道を求めているんでしょう」
伊吹は口をつぐみ、コーヒー茶碗を口にあてた。小説に関心のないらしい岡田は、煙草を手にし、黙ったまま二人の話をさいていた。
「太宰の作品では何が好きですか」
伊吹がまた口を開いた。
「『斜陽』、『桜桃』、『人間失格』あたりが特に好きですね」
「『桜桃』はいいですね」伊吹は相好(そうごう)を崩した。「自分の中でぶつぶつつぶやきながら桜桃(さくらんぼう)を食っているのがいい。普通だったら、貧乏暮らしを余儀なくされている家族を思いながら食っているんだから、いくつかでも土産として家に持って帰るんじゃないですか。太宰にはそういう感覚がまったくない。あの人は本物ですよ」
「本物って?」
「本物の作家だということです」
伊吹はきっぱりした口調でいった。
第3200号 1984年7月13日(金曜日) 4面掲載 |