書記独立運動の無視(1)抗日義兵闘争
「革命的指向」なしと暴論
従来の「評価」との矛盾も顧みず
一言半句も言及せずに
本稿はきょうから『略史』の各章にみられる問題点を具体的に検討・批判していくことにしたい。まずは、第1章の「主体型の共産主義革命家隊伍の形成。革命の指導思想、主体的革命路線」、そのなかの第1節が対象である。この節は、「わが国での共産主義運動の発生。初期共産主義運動の制限性」と題されている。
そのタイトルからして、この節で『略史』がとりあつかっている内容はほぼ推察できよう。 金日成登場以前の「共産主義運動」および、それ以前にさらにさかのぼっての初期独立運動がこの節で概括されている。が、その叙述の方法は一言でいって乱暴である。
この乱暴な方法は、一つはすでにみたように『闘争史』と『略史』の叙述起点の相違に、いま一つは『略史』が金日成以前の初期独立運動に与えている、きわめて少ないページ数にあらわれている。本文758ぺージのうち、わずか10ページという分量しかこの期間の叙述にさかれていないのである。政治的偏向の党史といわれ、『略史』の3分の1弱の分量にしかならない『闘争史』でさえも、これにほぼ該当する期間の叙述に29ページも使っている。しかも、『闘争史』の叙述方法には、次のようなそれなりに“正当”な論拠も提示されていたのである。
「党闘争史は、自己の研究対象の年代的範囲を8・15解放前の1910年代からとらえている。これは党規約に明示されているように、わが党は≪わが国の民族独立と解放のために闘争した朝鮮人民の継承者≫であるためである」(許甲=音訳=署名の『朝鮮労働党研究資料・党史研究対象とその深奥な研究のためのいくつかの問題』、57年5月発行の「北」労働党中央委理論機関誌『勤労者』第5号、P107)
難くせつけて葬りさる
にもかかわらず『略史』は、かつての「北」におけるこのような評価をも、一言の釈明もなしに無視。黙殺してかえりみようとはしない。金日成以前の抗日民族独立運動は、金日成と直接つながっていないという、理屈にもならぬ難くせをつけられて葬りさられてしまう。抗日義兵闘争は完全に抹殺され、3・1独立運動は金日成登場に都合のいいように改変されてしまうか、そうでない場合は無視される。そればかりか『略史』は、1920年の共産主義運動をも、徹医的にないがしろにするという叙述方法をとっている。あたかも金日成登場以前には、効果的な独立運動がなかったかのように史実の抹殺・歪曲をほしいままにしている。
なかでも、抗日義兵や「独立軍」の闘争は無惨なまでに踏みにじられ、あとかたもなく完全に抹殺されている。『略史』には、抗日義兵や独立軍という語句すらみられない。そこに、それらしきものを強いてさがせば、次のようなくだりがあるだけである。
「朝鮮人民の反日民族解放運動を一時期、民族主義者の影響のもとで進められた。しかしブルジョア思想潮流としての民族主義は、その階級的制限性により人民大衆の切実な要求と革命的指向性を思うままに反映することができなかったし、かれらの革命的潜在力を十分に発動させることができなかった」(『略史』P8)
61年に発刊された旧版『闘争史』も抗日義兵闘争の「階級的制限性」なる“欠陥”をあげつらっている。だが、「義兵闘争は民族独立のために戦う愛国的武装闘争だった」(「闘争史』P5)と“積極的”側面も記述しているのである。
なぜ、こうも違うのだろう。というより『略史』はどうして抗日義兵闘争にひとことも言及せず、「人民大衆の革命的指向性」や「革命的潜在力」を十分に「反映」「発動」させなかったとなじっているのであろうか。果たして『略史』がいうように抗日義兵闘争は、このように低い地位に落としめられ、なじられてばかりいるような存在だろうか。いやそうではない。
否定できぬ闘争の足跡
「北」側の刊行物でも、かつては抗日義兵闘争の「革命性」を評価している。その一つ、「北」労働党出版社が63年12月に発行した『わが国の歴史③』(注11参照)にみてみよう。同書は、1895年の「乙未事変」を契機に全国的に展開された「初期義兵闘争」を「日本侵略看たちの朝鮮独占を反対する朝鮮人民の闘争でもっとも主たるもの」(同書P92)と規定している。そして全国の各地で展開された柳麟錫、李麟栄、徐相烈、許薦、奇宇萬など義兵指導者に率いられる抗日義兵闘争の様相を詳述し、こう述べている。
「当時の義兵闘争は一定の闘争経験、武器もなしに自然発生的に起こった。それに対して敵は、近代的武器で装備し訓練を受けた日本侵略軍と官軍だった。そのためにこの闘争は非常に艱苦であった。しかし義兵たちは国を危機から救おうとの熱い祖国愛と込み上がるた敵愾心をもって、困難を克服しつつ敵と戦った」(同書P92~93)
同書はなお、1905年の「乙巳条約」を前後して戦われた「第2期義兵闘争」でも具体的に言及し、1907年以後の「第3期義兵闘争」も取り上げる。この年の7月には、日帝の強圧で国王・高宗が譲位させられる。同年8月には軍隊の解散も強制され、これら一連の事件で義兵闘争はさらに高まり、新しい様相をおびてゆく。そして「このような情勢下で1907年12月には、京畿道と江原道一帯で活動していた李麟栄を総隊長に、許薦を軍師長にして八道の義兵隊が一斉にソウルを攻撃して日帝をたたきつぶそうとした」(同書P97)ほど緊迫した状況を迎えるのである。
乱暴な“編さん”裏づけ
ソウル進撃は、日帝側に探知され、先制攻撃をうけて退却を余儀なくされる。義兵たちも、各地に分散するほかなくなってしまう。しかし、1895年の乙未事変を契機に、日帝の侵略に抗Uて決起することではじまった抗日義兵闘争は、1910年の「韓日合併」の後もつづけられ、後日、満州などにおける「独立軍」へと受け継がれていったのである。
そして、『わが国の歴史(3)』は、抗日義兵闘争を「日帝がきわめて縮小して発表した数字によっても、日本軍と義兵部隊との大きな戦闘回数は1907年の一年間で320余目、これに参加した義兵数は4万4000人」(同書P99)と高く評価している。
このように、かつての「北」側刊行物からも、抗日義兵闘争の「革命的」様相はうかびあがうてくる。それをどうして「革命的指向性」がないなどといえよう。そうであるがゆえに、はじめての“党史”といわれる『闘争史』でも抗日義兵闘争には、“留保条件”をつけながらではあるが、一定の評価をくださなければならなかったのではないか。なのに『略史』は、このように不当に低められた評価すらもとりはらってしまい、抗日義兵闘争をなじることにのみ終始しているのである。
だがこれは、かつての自らの記述もかえりみず、いかに乱暴に『略史』を編さんしたかを逆に物語るものでしかない。
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(注)『わが国の歴史(3)』は『闘争史』が出された約2年後の63年12月に出版されている。だが本稿でみたごとく抗日義兵闘争に対して『わが国の歴史(3)』は『闘争史』に比べられないほど高い評価を与えており、一見して矛盾していることがわかる。この矛盾は、前者が一般普及用として出版されたのに対し、後者が党員の一部に限定、配布されたものであることと関連していると思われる。すなわち「北」は61年に出した『闘争史』で、50年代後半から進めていた金日成中心杭日遊撃隊の歴史づくりという基本方向を党史としてまとめた。が、この方向は、その時点ではまだ党外に徹底化されていなかったようである。したがって、63年頃の「北」には歴史叙述にある程度の“自由裁量”があったことを『わが国の歴史(3)』は示唆している。
鄭益友(論説委員)
1980年5月16日 4面掲載 |