聖徳太子が、百済の聖明王の長子=阿佐太子と同一人物であると仮定すれば、穴穂部間人姫は聖明王の正妃である可能性さえ出てくる。
阿佐太子の弟である琳聖太子が周防に上陸したという伝承があり、その琳聖太子を追って、母親も周防にやってきたという伝承があることから、あるいは丹後半島にも寄港した可能性は否定できないのだ。でなければ、聖徳太子=阿佐太子は、間人生まれの穴穂部間人姫にくっつけられた机上の母子関係ということになるからだ。
丹波道主に代表される丹後勢力は初期の大和朝廷を樹立した勢力であることは、随時強調しているが、穴穂部間人姫は、その丹後勢力の女頭領であったかもしれないのだ。穴穂部が製鉄氏族であることを示唆するならば、丹後における遠所遺跡(京都府京丹後市弥栄町鳥取)に見る製鉄コンビナートと深い由縁があったろうことを感じさせる。当時の丹後半島は、倭国の先進地域であり、強力な王権が存在し、丹後王国とも称されていたと思われる。
聖徳太子の異母弟とされる麻呂子王子は、丹後で鬼退治をした伝承があり、京都府与謝郡与謝野町、かつての与謝郡加悦町も加悦(かや)という地名から古代、伽耶地域からの渡来人の定住地であったと見られている。
さらには彦坐王が玖賀耳之御笠(陸耳御笠)を討ったとする伝承は、麻呂子王子と繋がる伝承だと見られ、香具山=玖賀耳之御笠というニギハヤヒ勢力は、彦坐王=アマノヒボコ勢力に駆逐されて、その結果として尾張に逃れたという可能性が出てくるのだ。
〝幻の大和朝廷〟を拡大再生産した日本史学界
森博達著『日本書紀の謎を解く~述作者は誰か』によれば、倭人が担当したのは〈神代紀〉から〈安康紀〉〈推古・舒明紀〉〈天武・持統紀〉で〈雄略紀〉から〈用明・崇峻紀〉までが唐・韓地からの渡来人により、また〈皇極紀〉から〈天智紀〉までは別の渡来人によって執筆されたという。倭人が担当したものには、”倭習”といって、漢文の誤用・奇用が随所に見られるといい、渡来人のものにはそれがほとんどないということだ。
その倭人は、新羅系山陰王朝に属する旧来の渡来人と沸流百済の渡来人が融合した形のものを意味し、唐・韓地からの渡来人と別の渡来人は、温祚百済からの渡来人のことだと思われる。韓地で成長した温祚百済は、唐の影響を受けての漢文素養が身についていたからだろうと思われるからだ。
偽史の元凶である”韓隠し”を指弾し、真実の歴史の復元を追求しているのだが、百済系大和王朝が自らの存在を黒子にして、新羅系山陰王朝に覆いかぶせる形で、自らの存在を悠久の昔から存在していたかのごとく偽装、”幻の大和朝廷”を創出した。それが倭=沸流百済を現出したと考えられる。
後世、沸流百済の歴史が抹殺され、倭が日本列島であるとの認識が定着するにつれ、倭=沸流百済が倭としてのみ認識されるようになり、それに伴って、倭が韓地を支配していたという結果だけが残ることになったと思われる。とんでもない錯覚というほかなく、史実が忘却の彼方に押しやられてしまったとしか言いようがない。日本史学界は、歴史に無知あるいは無関心な風潮に付け込んで、”幻の大和朝廷”が当然の法理のように、悠久の昔から存在し、巨大であったかのごとく見せている。 |