数年前、フランスではナポレオンの逝去200周年を迎え、「ナポレオン再評価」が話題となった。マクロン大統領は、「ナポレオンをただ称賛したり貶めたりするのではなく、歴史を『ありのままに』直視しよう」と呼びかけた。過去の人物を現代の価値で裁くのではなく、当時の視点で捉え直そうとする動きがフランス各地で広がった。近年、韓国でも李承晩を再評価する動きが高まっている。長年にわたり、韓国社会では「反李承晩」ムーブをベースに、否定的、あるいは無関心というのが人々の定石だった。そうした中、再評価の流れによって初めて「李承晩大統領記念館建設運動」を本格化させ、李承晩を題材にした映画のヒットにもつながった。
本年は李承晩の生誕150年、そして没後60年の節目にあたる。この意義深い年にあたり、「善悪」の単純な構図から一歩離れ、時代を先取りした「指導者李承晩」の姿を改めて見つめてみたい。
近現代史の悲喜をともにした指導者
李承晩は、衰退期の朝鮮末期に生まれ、90歳で韓国国民として没するまで、近現代の韓民族史における亡国と建国の時代を貫いた人物である。朝鮮の衰亡、大韓帝国の滅亡、植民地時代、解放後の混乱、さらには北韓の侵攻による6・25の国難に至るまで、民族の悲喜と共に歩み、すべての局面において指導者としての役割を担った。
そんな彼の目指すところは、あくまでも祖国の独立と国民の安定した暮らしにあった。旧韓末、文明変革の潮流を読み取り、投獄の危険を顧みず国民主権運動や国家改革運動を主導した。獄中では国民啓蒙運動を展開し、『独立精神』を著して「国民が主権者となる新しい国」の青写真を描いた。出獄後は(大韓帝国初代皇帝)高宗の密使として渡米し、国権を守るための外交に尽力するとともに、国際政治や国際法など新時代の指導者に不可欠な学問を修めた。
博士号を取得した後は、ハワイで後進の育成にあたり、ハングルと韓国の歴史を教授し、在外同胞の民族的アイデンティティーを守った。1919年には大韓民国臨時政府の初代臨時大統領に選出され、民族の指導者として台頭。その後、米国や欧州で在外同胞を糾合し、外交独立運動を展開した。日本の700万の兵力と真正面から軍事衝突はできなくとも、「外交の戦場」では闘うことができた。国際連盟では在外同胞の苦境を訴え、同連盟から日本が脱退する足がかりとなったほか、『Japan Inside Out』を著して太平洋戦争を警告し、米国社会に安全保障上の脅威を喚起した。
建国と存続を成し遂げた指導者
1945年8月の解放後、韓半島は分断され、激しいイデオロギー対立による混乱に包まれた。この混沌の中で、李承晩は自由民主主義の大韓民国を建国することに成功した。
しかし間もなく6・25戦争が勃発。存亡の危機に直面する中、李承晩は熾烈な外交戦を展開し、米軍と国連軍の支援を取り付けて戦争を遂行した。さらに休戦協定の過程で、韓米相互防衛条約の締結(1950年10月1日)という成果を収めた。米国側の交渉相手であったロバートソンは、李承晩を「祖国のため恐ろしいほどに働く献身的な愛国者」と評し、「『1940年の英国にチャーチルあり』とするならば、『1950年の韓国に李承晩あり』だ」と称えた。国際政治の力学を活用し、最終的に新生・大韓民国の存続を守り抜いたのである。
一方、李承晩が直面した対外的課題のひとつが韓日関係であった。35年に及ぶ植民支配を受けた国との国交正常化は容易ではなかったが、対日外交を軽視することはなかった。むしろ、警務台(旧青瓦台)や外務部、東京の在日代表部を総動員し、活発な対日外交を展開した。
その核心のひとつが在日同胞問題だった。一部勢力によって「棄民政策」と断じられてきた李承晩政府の在日同胞政策には再認識、及び再評価が必要だ。第1次韓日会談から、李政府は在日同胞の待遇改善や生活支援など、安定した居住環境の整備を重点項目とした。つまり、主権国家・韓国が最初に掲げた外交要求は「在日同胞の保護」であり、「国民を見捨てる」という意図はなかった。北送問題についても、これを阻止しようと多方面で努力が続けられた。
光復80周年と建国77周年を迎え、改めて李承晩という指導者を見つめ直したい。彼は前近代から近代へ、帝国から民国へと移り変わる歴史の最前線に立った指導者だった。。本連載を通じて、李承晩を「祖国と国民を新たな時代へと導いた進取的な指導者」として記憶に刻んでほしい。
1957年8月14日、在日同胞の高校野球チームを警務台に招き、激励する李承晩大統領(左)
|