国務省と陸軍省、海軍省の韓国問題委員会が1947年8月4日に提出した報告書は、「米国が韓国から撤退すれば、極東地域と世界全般で米国の威信が損なわれるため撤退してはならないが、米国は韓国をソ連の支配に渡さずに韓国から人員と資金投資をなるべく早く減らすよう努力すべきだ」とした。この委員会は、南韓がソ連の支配下に入るのを防止するため韓国問題を国連に上程し、米国はなるべく早く韓国から手を引かねばならないと指摘している。
1947年5月、ホッジ中将の政治顧問として赴任したジョセフ・ジェイコブスは9月19日、国務省に「モスクワ協定を迅速かつ品位をもって破棄し、米軍をなるべく早く撤退せねばならない」という報告書を送った。
9月29日、マーシャル国務長官主宰で韓国問題の立場を整理する会議が開かれた。国務次官のロバート・ロベト、政策計画室長のジョージ・ケナン、極東局長のバタワース、特別政治局長のディーン・ラスク、東北アジア部長のジョン・エリソンなど、東アジア政策決定に核心的役割をなしてきた人物が集まった。当時、米国は中国で国共合作の失敗とヨーロッパでのマーシャルプランのため莫大な資源が必要だった。韓国のように米国の戦略上、周辺国家としての価値しかない地域に投資し難い状況だった。この日、米国は面子を保ちながら、なるべく早く韓国から撤退するため韓国を独立させることを決定し、そのため国連を利用することを決めた。
当時、米国の情報機関やソウルの米軍政庁の官吏たちは、米軍が撤収すれば南韓はいずれ共産化すると予測していた。そういう事態が米軍の撤収直後に発生して米国の威信が損なわれることを避けるため、米国は国連を介入させて南韓に政府を樹立することにしたのだ。
梁東安・韓国学中央研究院名誉教授は、「国連が介入することで、ソ連と北韓が国際社会の批判を意識し、南韓を共産化することを相対的にゆっくりと、そしてあまり露骨に推進しないようにする効果を期待して取った措置」と指摘した。梁東安と同じ見方の政治学者は米国にもいる。トルーマンとその補佐官たちは、米国が望まない負担を負うことのないよう、つまり、米国の公約放棄を公にせず韓国から撤退するため国連を利用したということだ。
1947年9月29日の会議は結局、韓国を放棄することを決めた。つまり、避けられたかもしれない「6・25戦争」を引き起こした端緒がまさにこの会議だったのだ。これは「韓国問題の韓国化」、つまり米国は韓国から速やかに撤退し、韓国人同士が戦って彼らに運命を決定させる政策だった。米国が大韓民国に対してもっと積極的な態度を示していたら、スターリンは韓半島で”冒険”をしなかったはずだ。
米国の韓半島政策が変わったのは、中国の内戦で国府軍が不利になり、ソ連との関係悪化で南韓が地政学的な「孤島」になったためだ。孤立した韓半島の南半分をソ連から守るためには莫大な財源が必要だった。米国務省は、かなりの財力と努力を傾けても、米国が不利と結論を下した。
米国務省内の「進歩主義者」たちは、南韓の右翼陣営の政治的能力を過小評価していた。それで、反共意志も疑わしく大衆動員の政治的能力も不足した中道派と米軍政を協力させた。この無謀な指示で米軍政が2年間試みた左右合作は、韓国問題の国連移管前に実質的に破綻していた。(つづく) |