韓地から渡来人が入植・開拓した積み重ねが倭国の歴史
〝壬申の乱〟を市民革命のように評価する向きもあるようだが、古代の当時においては、血統による統治が普遍化しており、王族と何ら関係のない豪族らが革命をおこして政権を奪取できるケースは稀有のことといわねばならない。
中国大陸における歴史の進展と、倭地における歴史の進展とを同一に捉えることはできないと思われる。倭地は長らく、韓地の支配下にあったと思われる。弥生人は韓地からの渡来人であり、以降も続々と韓地からの渡来人が日本列島に入植、開拓したからだ。
それは、まさに14、5世紀のアメリカ大陸、17、8世紀のオーストラリア大陸が、イギリス人によって開拓されたことと酷似する状況だ。紀元前後の日本列島は、海に隔てられた土地であり、イギリス開拓民が大海を渡ってアメリカ大陸やオーストラリア大陸に入植、開拓したように、韓地からの渡来人が、丸木舟でも渡れる海を渡って日本列島に入植、開拓したと考えられる。その歴史の積み重ねが、倭地の歴史というものだ。
日本の正史とされる『日本書紀』は、天武が発案し、藤原不比等の采配によって完成したとされるのだが、日本の独立宣言書でもあったという。ならば、どこからの独立であったのか。アメリカの独立宣言は、イギリスによって統治されていた北米13植民地が、独立したことを宣言するもので、1776年7月4日のことだった。
それとまったく同じことが、千年以上前の韓半島と日本列島の間で現出されていたと考えられる。縄文人が先住する日本列島に、韓半島西海岸に都する海上王国の沸流百済の探検隊が入植し、九州に上陸して分国を建設したと思われ、その分国が狗奴国とされるのだ。
そこへ、韓半島東海岸から卑弥呼の一団が九州に上陸し、伽耶諸国から渡来した弱小諸国を連合して邪馬台国を構成した。が、それらの国々はそれ以上に進展せず、また、沸流百済も日本列島に見切りを付けて退去した形になったと思われる。
自らの存在を黒子にした沸流百済は日本列島を倭国と称して見下した
それから、3、400年後に、熊津に都する沸流百済(利残国)は、高句麗広開土王に撃破されて、国をあげて日本列島に避難した。漢城(ソウル)に都していた温祚百済(百残国)は高句麗に全面降伏した。沸流百済は、大和に侵寇し、突如、百済系大和王朝を樹立したのだが、それは、新羅系山陰王朝の雄族であった和珥氏との両面王朝であった。
沸流百済は、自らの存在を黒子にして、日本列島を統治した。その証左は、日本列島を倭国と称したことだ。倭国というのは、中国からの呼称というのが通説のようだが、とんでもない〝韓隠し〟というほかない。
倭という語は、従順という意味があるそうだが、醜い・曲がってる・歪んでるという意味もあるそうで、倭国というのは、いやしい国という意味にもなるという。つまり、『新唐書』に「倭の名を悪んで更めて日本と号したとある」とあるように、倭国は侮蔑用語なのだ。
自らの存在を黒子にした沸流百済は、自らの存在意識を韓地に置き、いずれは、韓地に帰還する意識であったと思われる。それゆえ、日本列島を一時の滞在先と考え、倭国と名づけて、侮蔑の対象として見下したのだ。日本列島を定住地と認識したならば、自らの存在が侮蔑されることは容認できないはずだから、侮蔑語である倭国という国号は早い時期に解消されていただろうと思われる。
天武朝にいたって、倭国が日本という国号に改めたことは、独立国を目指す天武にとっては、当然のことであった。自ら統治する国の国号が侮蔑語であっては、自尊心が大いに傷つくことになるからだ。
そのことを裏返せば、天武朝以前は、日本列島は韓地の影響下にあったということになる。はっきりいえば、植民地状態にあったということだ。それゆえ、倭人は長らく、韓地人の侮蔑の対象であったのだ。その場合の倭人は、弥生時代以降の渡来人すべてを含む日本列島の居住者ということになる。
つまり、新羅系山陰王朝勢力と沸流百済系勢力が融合した沸流百済系倭地勢力が、天武朝以前は倭人と称されていた。その沸流百済系倭地勢力が、大海人王子(天武)を擁して、韓地系百済勢力に勝利して誕生したのが、新生日本国という独立国なのだ。
新生日本国は、韓地からの呪縛を全て断ち切る必要があった。それゆえ、『古事記』や『日本書紀』においても、〝韓隠し〟が徹底され、偽史となったのだが、その偽史を日本列島の歴史として認知させる努力が今も続いているといわねばならない。。
換言すれば、天孫族を、韓地からの渡来人とは見なさず、天から降ってきたような曖昧な存在にして、それが結論となる気質だ。真実の歴史を追及する意識を軽視する風潮ともいうべきもので、〝分かっちゃいるけどやめられない〟という表現に似たようなものだ。日本人自身が自らのルーツ探しに無関心になってしまい、曖昧なままで、納得し、満足し、奇異なことを好む気質になっているということだ。そこから、真実が見えるのかと、大きな声で問いたい。
倭地における文明開化はすべて韓地からもたらされたもの
『古事記』は沸流百済王朝史を正統として武烈朝までを述べ、『日本書紀』は王室、諸氏の伝承を集成し、『百済記』『百済本紀』『百済新撰』や中国史料を参照して持統朝まで収録して高天原からの王室の尊厳性を語ろうとしているという史観がある。
その『記・紀』は、戦前は聖典とされ、絶対視されたのだが、戦後になった途端、偽史扱いされるようになった。そして最近、右傾化の波と歩調を合わせるがごとくに、『記・紀』はかなり信用できるのではないかという風潮になりつつあるということだ。
『古事記』序文に、「偽を削り、実を定め」とあり、それは、万世一系の大王史に改竄したことを意味するといい、そのため、『記・紀』は歴史真実性をそこない、日本史学界を苦しめ、今なお、その歪曲から抜け出せないでいるという。
歴史の真実性がそこなわれたのは、まさに〝韓隠し〟であった。天武朝はなぜ〝韓隠し〟を敢行したのか。倭国を独立させるためには、韓地の呪縛を断ち切る必要があったからだと思われる。そのことを裏返してみれば、倭国は韓地の影響下にあったということ、現代用語でいえば、植民地状態にあったことを意味するのだ。
中国の影響と強弁することの第一は、商売の世界では御法度とされる〝飛び越し〟というもので、恣意的な〝韓隠し〟を意図したものと思われる。では、どうして、そのような悪意がまかり通っているのかということだが、歴史に対する無恥・無関心がそうした風潮を増長していると考えられるのだ。
確かに、遣唐使派遣を通じて、唐文化の直接の接触もあっただろうと思われるのだが、その多くは新羅などを経由しての往還であり、例えば、比叡山延暦寺の座主であった円仁、円珍は、中国の新羅坊に宿泊して、新羅人の支援で学問に励んだとされる。
であれば、新羅文化にも接触していたであろうから、唐文化の吸収においても、新羅的価値観の影響があったとも考えられるのだ。換言すれば、倭国人が吸収した唐文化は、新羅的要素も混入されているということになる。
中国の影響と強弁することの第二は、倭国人は、もともと伽耶人、あるいは百済人、あるいは新羅人、あるいは高句麗人であったということだ。たとえば、百済人であれば、韓地に居住していた頃、中国に留学、あるいは直接交流して、直接、唐文化に接した経験が、倭地に渡来して倭国人となり、その倭国人が、韓地での中国との交流を、倭国での中国との交流のように装うということだ。
〔持統紀〕
〝韓隠し〟を炙りだせば真実の歴史が見える
持統は、その幼名の鵜野讃良姫という名から、河内国の生駒山麓に展開されていた馬飼いの牧場と深い関係がある氏族によって育てられたであろうことを明らかにした。
白馬節会がアオウマノセチエと訓まれることに関して、日本史学界は納得できる解答を用意できないでいるようだが、韓国語で解釈すると、白馬は〝馬比べ〟の意味になるという。〝韓隠し〟ゆえに、語句の意味が未詳となった例のひとつだ。そのことは、日本語そのものが、韓語から派生した語であることを立証するものであり、それは、日本文化が韓地からの渡来文化であることを示唆するものだ。そのことを理性的に見極める必要があるということだ。
李寧熙氏が指摘するように、韓語で詠まれている『万葉集』の数々の歌を、日本語で無理やり訓み解いているがゆえに、難訓歌が多数存在しているといい、現在の『万葉集』として通用しているのは、真の『万葉集』ではなく、錯誤に陥っている〝平安万葉集〟だとしている。
飛鳥は百済系渡来人が開拓し百済文化の花が咲いた地であることを明らかにした。であれば、持統朝も百済文化に覆われていたであろうと思われる。飛鳥ばかりでなく、東国の甲斐国にも百済系渡来人が移住している。
持統朝には新羅人や高句麗人も東国に移置され、日本全国いたる所で渡来文化が花を咲かせた。武蔵国には新羅郡が置かれ、東国に遷住した高句麗系渡来人は高麗郡を設置した。新羅系渡来人は新羅神社、白旗神社、白山神社、白鬚神社などを奉祀した。朝鮮通信使の寄港地牛窓は新羅系渡来人の集落であった。日本三古碑の一つである那須国造碑や多胡碑は採銅事業を営む新羅系渡来人によって造立されたものと見られている。
上古から巨大なパワーを持つという大和朝廷は〝幻の大和朝廷〟であった
持統朝にも多くの韓地系渡来人が活躍しているのだ、日本史学界は、伎楽舞=呉舞は百済舞のことであるにもかかわらず中国舞とかインド舞とかと論じて〝韓隠し〟を敢行し、前方後円墳を日本固有のものだと強弁して、韓地にある前方後円墳は倭人の墓だと論じたりしている。
宗教の広布発展に貢献したのも韓地からの渡来僧だ。百済僧の道蔵は雨乞いの効験をもたらす一方、成実宗を伝えた。高麗僧の恵潅は三論宗、道昭は法相宗を伝え、新羅華厳宗を東大寺に伝えたのは新羅僧の審祥で、京都は高山寺に伝わる国宝『華厳縁起絵巻』は、新羅華厳宗を創始した義湘と元暁を主人公としている。義淵、良弁、行基なども渡来人の子孫で、新羅僧の観成は化粧用の鉛粉のオシロイを作った
日本史学界は、とんでもない倒錯の史観で、倭国が韓半島を支配していたと主張するのだが、そのような逆転の発想による古代史修史の〝韓隠し〟が臆面もなく行なわれている。ここにいう日本史学界とは、皇国史観に根付く歴史学者を総称していることを了承願いたい
朝鮮王朝時代に刊行された『海東諸国紀』という歴史書に、日本の年号には善化・正和・発倒・僧聡・同要などがあったと記されているということだが、それらの年号は『日本書紀』には見られないものだ。そのため、九州王朝の年号であろうと論じる向きもあるのだが、年号を立てるほどの国であれば、大和朝廷の倭国を凌駕する国と見ていいことにもなる。思うに、それらの年号は、沸流百済系大和王朝が存在する以前に存在した新羅系山陰王朝の諸国の年号であったと思われ、沸流百済系大和王朝は、それら諸国の事績を抹殺したと考えられるのだ。
弥生人は、韓地からの渡来人を意味するものであり、当時の文明開化は、人の移動によってもたらされたものである限り、再三強調するのだが、倭国の文明開化は、すべからく韓地からの渡来人によってもたらされたものということだ。
スサノオ(素盞鳴)やイタケル(五十猛)などを国神と称して倭人扱いしているのだが、天孫族が渡来すれば倭人として扱っているのが日本史学界だ。『日本書紀』に、縄文人に出自を持ち、文明開化をもたらした偉人がどれだけ扱われているのか、日本史学界が縄文人を日本人のルーツとするなら、まず、それを明らかにすべきだ。
日本史学界が上古から巨大なパワーを持つがごとくに記している大和朝廷が、〝幻の大和朝廷〟であったことを確信し、天武朝までの倭国は、韓地の属国的な立ち位置にあったことを明らかにした。
日本史学界は、中国の影響を喧伝するのだが、『日本書紀』を解読する限りにおいては、中国の影響は皆無に等しい。あったとすれば韓地の伽耶、百済、新羅、高句麗を通じてのもので、倭地における文明開化はすべて韓地からもたらされたものだ。中国の影響というものは、それは、伽耶、百済、新羅、高句麗で醸成されたものが倭地に将来されたもであるということを重ねて強調しておきたい。
結語 倭国を日本と改称したの侮蔑国号からの決別で独立でもあった
安閑朝では、安閑はは即位する前に殺されていたのではないかということを提起した。安閑の後を継いだ宣化も即位していなかったのではないかと観測した。両者とも、沸流百済系倭地勢力と深い関係にある大王であったことを明かにした。
それは、韓地百済(温祚百済)の圧力が激化し、沸流百済系倭地勢力の朝廷が危機に直面していたことを暗喩するものと思われる。「大王・太子・王子がみな死んだという〝辛亥の変〟は、倭国=沸流百済が、韓地の温祚百済にとって代わられた政変であると推測した。その韓地勢力の主人公は、百済聖王(聖明王)であったと思われる。
聖王は、子の阿佐太子を伴って日本に来たとの伝承もあるのだが、『日本書紀』は、聖王の来倭を記していない。が、聖王は日本に仏教を伝えたとされ、その聖王の意を体得していたのが蘇我馬子で、倭地での仏教広布に非常なる尽力をしているからだ。
聖王による仏教伝授は、倭国における仏教化革命ともいうべきもので、政治理念が神道的価値観から仏教的価値観に変容するものであったと考えられる。それが、欽明朝で実践されたものと思われる。
そこで推測されることが、聖王と欽明とは異名同人ではないかということだ。すなわち、聖王は明王とも呼ばれていて、明王に聖を冠すれば聖明王となり、欽を冠すれば欽明となることから、明王が百済でも倭でも通用する名称であり、百済と倭の大王を兼ねていて、倭国において、百済の大王として指称する場合は聖明王と呼び、倭の大王として呼ぶ場合は欽明と称していたのではないかと思われるからだ。
日本史学界は、悠久の昔から韓半島を支配していたというのが大勢の論述だが、それは、〝幻の大和朝廷〟論を拡大再生産しているようなもので、倭=沸流百済であることを認識すれば、倭は百済の属領であったことが明らかになり、倭が支配したという韓地の任那は、沸流百済のかつての属領であったことがわかる。日本史学界は、それを逆手にとった形で、倭が支配したように見せかけているのだ。
大和朝廷による韓地支配を、巨大な大和朝廷によるものとのイメージ作りの論述が、当然の法理であるかのごとく展開されているのだが、その巨大な大和朝廷というものは、全くの幻であったということだ。その巨大な大和朝廷のイメージを定着指せたのが平安時代の「日本紀講筵と竟宴」ではないかと思われる。
『日本書紀』は〝百済書紀〟で思われるほど、百済のことを詳述しているのだが、であれば、倭国は百済の影響を受けたと考えるのが常識だが、日本史学界は中国の影響のみを強調する。聖徳太子は聖明王の子の阿佐太子、用明は琳聖太子ではないかなどを提起したが、そうしたことは全く無視され、話題にものぼらない。不思議な体質の日本史学界というほかない。
蘇我馬子は、倭国を神道=儒教国から仏教国へ転換し、推古朝は、聖徳太子を摂政とする百済仏教王朝であったことを明らかにした。それは、韓地百済系勢力による百済色一色の仏教王朝であったのだが、それに不満を蓄積していたのが、息長氏族を初めとする沸流百済系倭地勢力であった。
中大兄王子は、そうした沸流百済系倭地勢力を抑え込み、蘇我氏を誅殺する乙巳の変を敢行して、倭国の主体勢力となった。その中大兄王子は、百済義慈王(余豊璋)の弟の塞上ではないかとも推測した。中大兄王子は倭地生れでないがゆえに、太子でありながらも、長らく大王に就任できなかった。皇極(斉明)は、百済義慈王の妹の宝姫ではないかとも推測した。
皇極は、沸流百済系倭地勢力の支援を受けた大王の正妃になったことから、倭地生れという条件が免罪符となり、大王に就任した。中大兄王子も、沸流百済系倭地勢力をバックにする大海人王子を太子にするという条件で、大王に就任することができたと思われるのだが、天智(中大兄王子)は子の大友王子を後継者にしたことから、沸流百済系倭地勢力の反発を買い、壬申の乱が勃発したと思われる。
結果は、大海人王子方、つまり沸流百済系倭地勢力が勝利し、復権した。と同時に、『古事記』と『日本書紀』の編纂を命じた。それは、〝韓隠し〟による日本の独立宣言書でもあった。裏返せば、それまでの倭国は、百済の属国であったということだ。それはまた、巨大な大和朝廷というものは、幻であったということにもなる。
沸流百済は、自らの存在を黒子にして日本列島を侮蔑して倭国と称したが、その倭国を日本と改称したことは、倭国という侮蔑国号からの決別でもあり、独立でもあった。(おわり)