韓国が享受する繁栄は「奇跡」だとされている。戦争の廃墟から世界屈指の経済力、成熟した民主主義、さらに世界を魅了する文化大国へと飛躍した例は、人類史上でも極めて稀である。だが、この奇跡の出発点について、韓国社会は十分に問い直してきただろうか。「この大韓民国という奇跡は、いかにして可能となったのか」。この問いに答えるためには、一人の人物に改めて目を向ける必要がある。初代大統領、李承晩である。
李承晩は、韓民族史上でも最も激動的な転換期を切り開いた指導者であった。王朝の崩壊、植民地支配、解放後の混乱、そして6・25戦争に至るまで、彼は単なる観察者ではなく、歴史の流れを動かした当事者であった。
日帝時代において、彼は武力ではなく論理と洞察を武器とした。米国社会に向けた「公共外交」を展開し、独立の正当性を国際社会に訴え続けた。1941年の著書『Japan Inside Out(日本の内実)』は、日本軍国主義の脅威を西側諸国に警告した書として知られる。刊行から4カ月後に真珠湾攻撃が発生すると、同書は全米でベストセラーとなり、李承晩は時代を見通す人物として評価された。武力が支配する時代にあって、論理と洞察によって帝国に対峙した外交家としての姿を体現したのである。
彼の目標は一貫していた。「個人の自由が保障される民主共和国」の建設である。解放直後、左右合作や信託統治など多様な国家構想が錯綜する中、李承晩は国際情勢を見極め、自由民主主義体制の選択に踏み切った。当時としては孤立を伴う決断であったが、この選択がなければ、現在の韓国社会における自由は成立しなかった可能性が高い。
米ソ冷戦構造の中で、韓半島の進路は限定されていた。李承晩は1948年、制憲国会議長として憲法制定を主導し、自由民主主義と共和制の基盤を築いた。大韓民国政府の樹立は長らく「分断の責任」と批判されてきたが、この選択なしに今日の国家が成立し得たかは、改めて問われるべき課題である。
李承晩の指導力は、国家的危機の中でより明確に表れた。6・25戦争では開戦から数日で首都ソウルが陥落し、国土の大半が北韓軍に占領されたが、大韓民国は最終的に存続した。
農地改革と教育革命
その決定的要因は軍事力ではなく外交にあった。李承晩はこの戦争を内戦ではなく「自由世界と共産世界の衝突」と位置付け、国際社会の介入を迅速に引き出した。国連軍の参戦は国家存続を左右する重要な外交成果となった。
休戦交渉の過程では「反共捕虜釈放」という強硬策を通じて、「韓米相互防衛条約」の締結を引き出した。この条約により、韓国は戦後70年にわたり大規模戦争を回避し、経済発展に専念する環境を確保した。国家の安全保障を支える枠組みが構築されたのである。
国内では農地改革を断行した。「耕者有田」の原則に基づき、農民が土地所有者となったことで、従来の被支配層から主体的な市民へと転換した。こうした基盤が、戦時における抵抗の力ともなった。
北韓が土地を再配分した後に国家統制へと移行したのに対し、韓国では農民を独立した経済主体として育成した点が特徴的である。農林部長官の曺奉岩とともに制度設計に関わった李栄根(統一日報共同創刊者)の役割は、長く続いた封建的な地主制の解体と中産層形成の出発点となった。
さらに李承晩は、戦後復興の柱を教育に据えた。初等義務教育の普及により識字率を大きく向上させ、これが後の産業化を支える人的基盤となり、「漢江の奇跡」を可能にした。
大韓民国のアイデンティティーを見つめて
李承晩をめぐる評価は現在も大きく分かれている。長期政権や権威主義的統治は批判の対象であることは否定できない。しかし、一人の人物の晩年のみを切り取って全体像を評価することは、歴史の均衡を損なうおそれがある。
若き改革者、植民地支配に抗した外交家、国家の枠組みを設計した指導者、そして戦時に国家を維持した戦略家。当時の韓半島において、国際政治と外交を同時に扱い、国家の進路を描ける人物は限られていた。
現在、韓国社会が享受している自由民主主義、市場経済、個人の財産権は偶然に成立したものではない。それは選択と決断、そしてそれを貫いた結果である。ナポレオンを再評価し歴史認識を再構築したフランスのように、韓国社会も自国の歩みを冷静に見つめ直す必要がある。その上でこそ、先人が築いた成果を次世代へ継承し、歴史に対する責任を果たすことができるのである。
真珠湾攻撃を予見したとされる著書『Japan Inside Out』。下は李承晩初代大統領。