新解釈日本書記「続」応神 幻の大和朝廷 第110回 伴野麓

日付: 2026年02月17日 11時47分

 〔孝徳紀〕

孝徳は伽耶と深い関係にあった


幼少、軽王子と呼ばれた孝徳は、伽耶と深い関係にあることを浮き彫りにした。一口に伽耶といっても、伽耶諸国と言われるように、多様な側面があった。
後に百済的な伽耶、新羅的な伽耶、高句麗的な伽耶に収斂されたと思うのだが、伽耶諸国は、それら列強三国の取り合いの場となり、それら列強三国との争いを避けた集団が倭地に避難し、定住して、倭地での国造りを始めたと思われる。その初めが、弥生時代と称される時期だと考えられる。
それら伽耶からの避難民が、出雲や因幡、丹波、若狭などの地で国造りをした。後に韓半島が新羅に統一され、伽耶諸国も新羅に吸収されたことから、それら伽耶人によって造られた国々を、新羅系山陰王朝と称している。時には伽耶を強調するために新羅(伽耶)系山陰王朝とも書いている。
軽王子と称された孝徳は、そのような新羅系山陰王朝に属する氏族によって養育され、擁立されたのだろうと思われる。というのも、孝徳は皇極の同母弟とあり、母は吉備姫王と見られるからだ。その吉備姫という名から、吉備の地と深い関係にあると思われるのだ。


 孝徳は旧伽耶勢力によって養育・擁立された

吉備津彦は、崇神朝の4道将軍の一人であり、敦賀気比神宮の考証においては、その吉備津彦はアマノヒボコ(天日槍)に比定される人(神)格でもある。それは、新羅系山陰王朝の構成氏族であることを暗喩するものだ。しかし、400年前後になって、高句麗広開土王によって撃破された沸流百済が国をあげて倭地に避難したことから、倭地の様相が激変した。
沸流百済は、大和に侵寇して、当時、大和の地の頭領であった和珥氏を篭絡し、和珥氏を前面に押し出して、自らの存在を黒子にし、百済系大和王朝を樹立した。つまり、百済系大和王朝は和珥氏と沸流百済の両面王朝であったのだ。
その両面王朝と、新羅系山陰王朝を構成していた諸氏族との軋轢・葛藤が、その後の大和朝廷で展開され、覇権闘争となる。が、200年、300年と経るうちに、沸流百済とそれら倭地諸氏族の同化が進み、沸流百済系倭地勢力に変容していったと考えられる。時に韓地は、沸流百済の弟格である温祚百済が、倭地の沸流百済を飲み込みにかかるのだ。そのため、韓地百済と倭地勢力の争いが続く。
ところで、中大兄王子の実像の候補者は義慈王の弟の塞上と推量した。乙巳の変を目撃した古人大兄王子が「韓人が殺した」と叫んだのは、その韓人が、韓地からの渡来1世の人物であったからだろうと思われる。通説は、中大兄王子としているのだが、それでは、古大兄王子が「韓人」と叫ぶ必要がない。


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