時代を導く「指導者 李承晩」 (第12話)

金正珉 財団法人李承晩大統領記念財団責任研究員
日付: 2026年01月20日 10時39分

 長年の念願の末に誕生した新生国家・大韓民国の平和は、決して長くは続かなかった。政府樹立から2年も経たないうちに、未曾有の国難である戦争に直面することになったのである。
1950年6月25日未明、金日成配下の朝鮮人民軍は、大韓民国に対する奇襲侵攻を開始した。わずか3日で首都ソウルが陥落し、二カ月後には慶尚道の一部を除く韓国の大部分が占領された。
李承晩大統領は、直ちに戦争指導に乗り出した。彼は大韓民国史上初の戦時指導者としての役割を、ためらうことなく引き受けた。何よりも迅速に国際社会へ緊急支援を要請したのである。それは、この戦争を内戦ではなく、国際戦争として捉えていたからにほかならない。この戦争は、国際共産主義陣営の連携の下に成立した北韓が、国際連合の承認を受けて建国された大韓民国を侵攻したという点で、本質的に国際戦争であった。思想的にも、ソ連を中心とする共産陣営と、米国を中心とする自由陣営との衝突であった。
李承晩の迅速な外交的決断は、米国および国連の支援を引き出すことに成功した。国連は開戦からわずか2日後に開かれた安全保障理事会において、国連軍の派兵を決議した。これは国連の名の下に国連軍を派遣した、世界史上初の事例であった。
戦時指導者・李承晩にとって、戦略的な一時的後退はあり得ても、無責任に逃亡するという選択肢は存在しなかった。李承晩大統領は、首都を一時移転してでも政府を維持し、国際社会に対して責任ある軍事的・外交的リーダーシップを示した。戦時下においても外国使節団との会談を重ね、軍事支援および戦後復興への協力を要請した。こうした外交努力は、国際的信頼を形成する重要な基盤となった。
戦争下の大韓民国にとって最大の武器は、李承晩の外交であった。休戦交渉が長期化する中、李承晩は反共捕虜を釈放するという強硬手段に踏み切り、国際社会全体を驚かせた。捕虜収容国の大統領が捕虜の解放を命じたという、前例のない出来事であった。
李承晩は、休戦協定の文書だけでは共産主義勢力の再侵攻を防げないと判断していた。彼が求めたのは、米国による確固たる停戦保障であった。
そのため李承晩は、反共捕虜の釈放を通じて、韓国軍が単独行動に踏み切る可能性を示し、米国を交渉の場へ引き寄せようとした。この外交戦略は的中した。その結果、53年8月、韓米相互防衛条約の締結という大きな成果を得るに至った。
当時訪韓していた米国務長官ダレスは、「強大国の政策を弱小国の政策に一致させるために、強大国の国務長官が弱小国の大統領に会うため世界を横断することは、歴史上初めてのことである」と述べた。
53年8月8日、李承晩大統領が見守る中、ダレス米国務長官と卞栄泰韓国外務長官は、韓米相互防衛条約に仮署名した。ダレスは李承晩大統領を抱きしめながら、「これはあなたとあなたの国に対する当然の敬意の表明である。この条約は、ここで命を落とした我々の若者たちの血によって封印された」と語った。こうして指導者・李承晩は、世界史的にも稀有な「鯨と海老」の同盟条約を成立させることに成功したのである。
翌日、李承晩大統領は次のような国民向け談話を発表した。
「我々の子孫は、今後幾世代にもわたり、この条約によって多くの恩恵を受けることになるでしょう。韓米両国の共同努力は、外部からの侵略者から我々を守り、長期にわたり我が国の安全を保障するものとなる」
この条約により、議会の承認を待たず即時参戦可能な米軍が韓国に駐留することとなり、55年には総額7億ドルに及ぶ経済・軍事援助が開始された。60年代に至るまで、米国が韓国に提供した援助額は、年間3億ドルに達した。
李承晩の予見どおり、大韓民国は韓米同盟という安全保障の傘の下、米国からの大規模な支援を受けながら戦後復興を成し遂げた。
李承晩は、国難の渦中にあって軍事的・外交的決断を下し、大韓民国を守り抜き、戦争によって崩壊した国家を再び立ち上がらせた不屈の指導者であった。
(完)


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