幻の大和朝廷105

新解釈日本書紀(続)応神
日付: 2026年01月14日 11時14分


〔舒明紀〕

舒明朝は沸流百済系倭地勢力の巻き返し

推古朝は、聖徳太子を摂政とする百済仏教王朝、換言すれば、韓地百済系勢力による百済色一色の仏教王朝であったのだが、それに不満を蓄積していたのが、息長氏族を初めとする沸流百済系倭地勢力であった。推古朝を継ぐ山背王子と田村王子との後継者選びは、沸流百済系倭地勢力と韓地百済系勢力との覇権闘争であった。
舒明朝を仏教王朝に仕立て上げたのは、聖徳太子の力量によるものと思われ、聖徳太子の後継者である山背王子が、推古朝を継ぐ正当者であったはずだと思われる。当時の絶対権力者である蘇我蝦夷は、田村王子を推挙したとされるのだが、実際は、山背王子でもなし、田村王子でもなし、どちらかといえば田村王子という曖昧な態度に終始した。
聖徳太子の後継者である山背王子を確信をもって推挙していた境部摩理勢を絞殺させた蘇我蝦夷は、結果的に田村王子を推挙したということになったが、それは、息長氏を初めとする沸流百済系倭地勢力との妥協の産物であったと思われる。

沸流百済系倭地勢力は仏教革命に不満が蓄積

応神朝以来、倭地の大王は沸流百済の血脈が大王に就任したと思われる。その血脈が途絶えようとしたとき、越の地域から、応神の6世孫と称される継体が担ぎ出され、応神朝に回帰した。応神朝が、和珥氏と沸流百済の両面王朝であったことはすでに明らかにしている。
応神朝に回帰した継体朝の頃から、沸流百済系の王族は、新羅系山陰王朝の構成氏族であった倭地勢力と婚姻等の事由により、一体化、つまり沸流百済系倭地勢力に変質していったと考えられる。
一方で、韓地では、沸流百済の影響力が低下していき、沸流百済の弟格である温祚百済が力を貯えてきたと思われる。蘇我氏はその代理人となって倭地に仏教を流布し、聖徳太子らは倭地での仏教革命を成功させ、その集大成が推古朝であった。換言すれば、倭地は、韓地百済(温祚百済)の影響下に置かれたといってもいい状態になったのだ。
それに対して、沸流百済系倭地勢力は不満を蓄積し、反発した。そうした空気を察したのが蘇我蝦夷で、妥協の産物として、田村王子を後継者に推挙した。舒明の和風諡号が息長足日広額であるように、舒明は息長氏の影響を受けていた大王であり、それゆえ、舒明朝は、沸流百済系倭地勢力の巻き返しと見ることができる。


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