国際共産主義運動としての北送事業~世界的な政治・文化工作、宣伝活動~

評論家・三浦小太郎
日付: 2026年01月01日 00時00分

 北送事業は、朝鮮総連の単なる詐欺宣伝ではなく、ソ連主導の国際共産主義運動による「平和攻勢」の一環だった。朝鮮戦争後の政治的プロパガンダとして、金日成政権の権力強化と日本でのイメージ向上に利用され、多くの日本の知識人・進歩派がこれを人道的事業として支持した。

 今後北送事業を論じる上で必読の書籍は『北朝鮮帰国事業と国際共産主義運動』(川島高峰著 現代人文社)であり、本稿もこの著書には多くを負っている。この北送事業は単に朝鮮総連が当時の在日朝鮮人を詐欺宣伝で北韓に送っただけのものではなく、ソ連を中心とした国際共産主義運動のプロパガンダの一環であった。
ソ連は建国以後コミンテルン時代、資本主義体制の国家とは究極的には撲滅対象と考え「革命戦争」を肯定していた。しかし第二次世界大戦に於いて、ソ連は英米と軍事同盟を結びナチスに対抗するためにコミンテルンを解散する。しかし、戦後再びソ連は「コミンフォルム」という後継組織を編成「平和攻勢=資本主義国内の平和勢力を徹底的に利用し、共産主義の影響を強め、資本主義体制を弱体化する」ことを基本方針とする。これと全く同じ構図が、第二次世界大戦後の日本および朝鮮半島で繰り広げられた。

 「朝連」と「建青」が結団

1945年10月、治安維持法が撤廃され、戦前からの日本共産党員とともに、朝鮮人共産主義者金天海等が解放された。金の極左的な方針に沿って在日朝鮮人連盟(朝連)が結成され、右派や自由主義者はこの組織からほぼ追放され、朝鮮建国促進青年同盟(建青)を11月に結成する。
そして日本共産党も、45年12月、日本共産党第4回大会にて中央委員に金天海を選出、彼と近い立場だった金斗鎔と共に、「朝鮮人部」を作る。金斗鎔は46年2月の機関誌「前衛」創刊号に「日本における朝鮮人問題」を寄稿「民族闘争を日本人民の解放闘争、天皇制打倒の方向に結び付ける」ことを主張した。
48年9月北韓が建国すると、朝連は「祖国の歴史上一大光明」と讃え、国旗掲揚闘争として北韓国旗を様々な大会で掲揚し、公然と北韓支持の示威行動を行った。また朝連は48年10月の第五回全体大会で「南朝鮮反動分子たちの暴力的権力機関の打倒」「朝鮮民主主義人民共和国の旗のもとの全民族の統一」を掲げていた。

過激な政治活動で朝連に解散命令


米軍占領下でここまで親北・共産主義の挑発を繰り返したことにより、49年9月8日、朝連は暴力主義的団体として解散命令が出される。48年4月の阪神教育闘争における「大挙して大阪、兵庫の府県庁を襲撃し、知事その他の官公吏に対して暴行、監禁、脅迫の不法行為におよび」「占領軍にも反抗し」たことも理由の一つに挙げられている。
50年に朝鮮戦争が勃発すると、朝連を引き継いだ在日朝鮮統一民主戦線(民戦)は米帝侵略反対、祖国(北朝鮮)防衛、日本国内で米軍の輸送に抵抗せよなどのスローガンを掲げ、祖国防衛隊という非合法組織を組織し、当時の日本共産党と共に武装闘争に向かった。52年に起きた「吹田事件」「血のメーデー」事件などの激しい警官との衝突事件で、民戦はしばしば前線に立った。
そしてこの年11月11日、大村収容所事件が発生する。収容されていた約650人の朝鮮人が管理者と衝突、集団で脱走したのだ。収容者の中には単なる密航者や不法入国者もいたが、おそらく多くはこの時期の過激な左翼運動家の朝鮮人が逮捕されて収容されていたはずだ。また、密航者の中には、前年の済州島事件により日本に逃れてきた人々もおり、その中には南労党関係者もいたかもしれない。
民戦は収容所をしばしば包囲して収容者の即時解放を訴えていた。この時に掲げられたのが「帰国希望者の即時帰国」つまり北韓への帰国だったのである。韓国政府はこのような極左を朝鮮戦争前後に受け取ることは忌避していたし、また、反共自由主義の韓国に朝連や南労党関係者が行きたいはずもなかった。そして、北韓から大村収容所からの帰国者を受け入れる意思(大村収容者奪還運動)は53年から文書で示され、後に「祖国は待っている 在日同胞の帰国問題に関する文献」に正式にまとめられている。
そして、大村には北韓から日本に送り込まれた工作員が収容されていた。49年に日本に密入国した北韓のスパイ許若松は、日本にスパイ団を組織し、北韓に在日朝鮮人を送り込むとともに米軍を妨害する活動を行っており、50年9月に東京世田谷で逮捕され、大村収容所に送られている。許は収容所内で、北韓帰国希望者を募る活動も行っており、朝鮮戦争後に民戦から再度編成された朝鮮総連はさっそく救援活動を行っている。スパイや工作組織の奪還、防衛もこの帰国運動の目的の一つだった。

武装闘争から工作活動へと転換

朝鮮戦争後、日本における共産主義運動は武装闘争の時代から、平和攻勢のもとでの工作活動に移行する。民戦は解散、朝鮮総連として、つまり北韓の完全な従属機関であり、かつ日本国政府との武装闘争ではなく、様々な政治工作、文化工作、宣伝活動、そして大村収容所に始まった「在日朝鮮人帰国=北送運動」の全面展開を展開する。
この「北送事業」の目的が、朝鮮戦争において失われた労働力不足を補うためのものだったという説は説得力に乏しい。北送者(帰国者)たちは現地で厳しい身分差別を受け、本来労働力不足ならば活用すべき各自の望む職場への派遣もほとんど行われていない。
北送事業により金日成が獲得したものは、まず朝鮮戦争の敗北(統一が実現せず自由主義陣営に敗れ、かつ南労党の基盤を失った)を打ち消す、北朝鮮に9万3000人もの、しかもほとんど韓国出身者が、共産主義体制を支持して「帰国」したという平和攻勢における政治的得点である。金日成はこの政治的功績を根拠に独裁権力を強め反対派を粛正しえた。
もう一つ、北韓が人道国家である(逆に韓国は悪しき軍事独裁である)という印象を日本に植え付けたことである。これは長く日本の知識人界隈を支配する概念となった。北送事業を、日本の「進歩派」「人権派」とみなされる知識人がいかに人道的事業として宣伝し、結果として北韓のイメージアップに貢献したかは、大江健三郎や中野重治の当時の文章を読めば明らかだろう。そして、帰国者を人質に取られた在日朝鮮人たちは、その後完全に北韓政府の事実上の傀儡である朝鮮総連に従属せざるを得なくなり、北韓の人権問題や帰国者、日本人妻の悲劇に数十年にわたって沈黙を強いられた。

 韓国政府と民団は北送事業に反対

当時は共産主義についての幻想が強固であり、北韓の実態は充分知られておらず、北送事業を支持したのもやむをえないという言説もある。しかし、53年のスターリン没後、すでにフルシチョフによるスターリン批判は発表されており、そのフルシチョフ政権も、56年のハンガリーにおける民衆決起を戦車で踏みにじる暴挙を犯していた。そのような状況下、北韓の共産党独裁を無責任に擁護、北送事業を礼賛した日本の政党、報道機関、また知識人たちにも責任がなかったはずはない。
実際北送事業に対し、当時の韓国政府と民団は一貫して反対運動を展開した。それは当時の韓国が、北韓と共産主義者たちがどれほど残酷で人間の自由を踏みにじるものであるかを、朝鮮戦争の戦場を通じて知り尽くしていたからである。北送者(帰国者)たちは、朝鮮総連や日本の宣伝を信じた過ちを、北韓で自らの生命をかけて償う運命を強いられた。その彼らに自己責任を問うのはあまりに冷酷な論理だ。しかし、安全地帯で共産主義を礼賛し、北送事業を看過、もしくは肯定した人たちは、少なくともその責任を、北韓の人権改善や脱北者救援に力を注ぐことで償う義務はありはしないだろうか。

三浦小太郎 評論家・文筆家。アジア自由民主連帯協議会理事長。


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