『先代旧事本紀』の内容を虚偽とするわけにはいか ない
『古事記』と『日本書紀』の伝承史は、倭国から日本への生い立ちを語ろうとした自画像だといわれている。『古事記』は第34代推古朝までの王統譜を綴っているが、『日本書紀』は第41代持統朝で筆を置いている。
『日本書紀』を熟読すると、倭王の交替が幾度もあったことを示唆していることに気付く。それは、百済↓筑紫↓吉備↓難波の瀬戸内ルートに立つ葛城系王家と、新羅(伽耶)↓出雲↓若狭↓越↓近江↓山城↓磯城を結ぶ山陰海岸ルートに立つ春日系王家の相克であったという。前者を百済系大和王朝とし、後者を新羅系山陰王朝とする視座ともいえる。
推古28年(620年)の条項に「太子と馬子大臣が議って、大王記および国記(くにつふみ)、臣・連・伴造・国造など、その外多くの部民・公民らの本記(もとつふみ)を記録した」とあることから、推古朝に聖徳太子と蘇我馬子によって『先代旧事本紀』が撰修されたものとされている。
しかし、『先代旧事本紀』に、和銅5年(712年)に刊行された『古事記』や養老4年(720年)の『日本書紀』、それに大同2年(807年)の『古語拾遺』の記事が引用されていることから、それ以後の刊行と見られ、そして、平安時代中期の年中行事の起源や沿革などをまとめた『本朝月令』や鎌倉時代末期の『日本書紀』の注釈書である『釈日本紀』などに、『先代旧事本紀』の記事が引用されていることから、平安初期に刊行されたものと見られている。
それゆえ、日本史学界の大勢は、『先代旧事本紀』を偽書とするが、その内容までを虚偽と否定するわけにはいかないという説も根強い。『日本書紀』に引用される「百済記」「百済新撰」のことだが、推古朝以前に成立したとされるのが通説だ。
聖徳太子は百済の阿佐太子であるという当為性
隋使の裴世清が見た倭王は男王だったということだが、その男王は、推古の摂政となった聖徳太子だと見られている。当時は、蘇我馬子が絶対的統治者であったはずで、推古を凌ぐ権勢を振るっていたと思われる。何人といえども、その蘇我馬子をさしおいて統治の楫取をすることは困難であったと思われる。