1968年2月20日、静岡県清水市のクラブ「みんすく」で暴力団員2人をライフル銃で殺害し、寸又峡温泉の「ふじみや旅館」で宿泊客ら13人を人質にとって籠城した「金嬉老」は、在日韓国・朝鮮人への差別を告発したことで注目されました。
この事件の頃、私はまだ大学生でしたが、その後いくつかの縁ができました。まず、この金嬉老裁判の特別弁護人として「金達寿」氏(20年1月17日生まれ、97年5月24日死亡)の名前があります。古代史を分析し、日本の成り立ちが朝鮮半島からの渡来人によることを明らかにした人です。
また、この裁判に最も深く関わった特別弁護人は「梶村秀樹」さん(35年7月4日生まれ、89年5月29日死亡)です。金嬉老氏との間で何年にもかけて数百通の手紙のやり取りをして、事件の本質を追及しました。この梶村さんは朝鮮と向き合った思想家の一人として有名ですが、私が大沼保昭東大教授らと83年に「戦後責任を考える会」をつくり、サハリン残留韓国人問題を本格的に取り組み始めたとき、梶村さんも参加してくれました。そして、早速サハリンを訪問されたのは驚きでした。梶村さんは53歳という若さで亡くなられたのは、返す返すも残念に思います。
ところで、金嬉老裁判の特別弁護人になった人に「佐藤勝巳」氏(29年3月5日生まれ、2013年12月2日死亡)もいたのです。
後に、サハリン裁判や慰安婦問題で戦後補償に反対する勢力の中心的存在になった朝鮮問題研究者です。
この佐藤勝巳氏は、金嬉老弁護団にも入ったり、日立就職差別事件では原告補佐人をつとめるくらい、一時は在日韓国人の人権問題に熱心だったのですが、1984年に現代コリアを設立したのちは、サハリン残留韓国人問題や慰安婦問題で私たちを敵視してきたのです。そして、北朝鮮拉致問題に関わり、救う会の会長にもなりました(現在は西岡力氏が会長)。
このように私の知る人が多く関わっていましたが、ひょんなことから私も関わることになりました。
金嬉老氏は、99年に仮釈放になりますが、その2、3年前、韓国の僧侶のグループが彼の仮釈放を求めて私の事務所に来たのです。
私は知り合いの国会議員の協力を得て、金嬉老氏の仮釈放問題について法務省の担当者と話し合いました。
それまで、無期懲役の判決を受けても、15年を過ぎれば仮釈放になるというのが法曹界の常識だったのですが、当時、金嬉老氏は20年を過ぎていたので、仮釈放を実現すべく働きかけをしたのです。しかし、当時、仮釈放で出獄した人が再度、殺人事件を犯したこともあり、世論が厳しくなったためか、金嬉老氏も仮釈放まで25年かかってしまいました。今では30年を過ぎても仮釈放の決定が出なくなっています。私が弁護をした被告人も無期懲役で30年を越えて、なお出て来ないのです。関係者が待ちわびて先に亡くなりました。
また、20年ほど前に、清水市に依頼者が出来、しかも上記のクラブ「みんすく」の経営者の家族と面識を持ち、事件当時の話も聞くことが出来きました。
金嬉老氏は仮釈放後、釜山に住むようになりましたが、愛人の夫の殺害を計画したとして逮捕され、韓国での英雄の人気も地に落ちたとされました。金嬉老氏は2010年3月に亡くなりました。享年81歳でした。
このように浮き沈みはありましたが、在日韓国人に対する差別的な取り扱いに抗議し、日本における民族差別を告発し、彼なりに戦った人物として歴史に名を残した事実は今も残っています。