時代を導く「指導者 李承晩」 (第10話)

金正珉 財団法人李承晩大統領記念財団責任研究員
日付: 2025年12月02日 10時47分

日本帝国を震撼させた闘い

 「私は、韓国代表団が配布した諸文書を通じ、祖国光復を目指す韓人たちの奮闘がいかに偉大で、また尊敬すべきものであったかを知った。韓国革命陣営の指導者である李承晩博士と親交を結べたことも光栄であった。博士の情熱と品格には、人を自然と感服させる”特別な何か”が備わっていた」
これは、第一次世界大戦後の新秩序をめぐる国際会議いわゆるワシントン会議で李承晩の活動を目撃した中華民国側人物、王鳳生(おう・ほうせい)が残した証言である。臨時政府初代大統領であった李承晩は、同会議の時期から韓国代表団を率い、本格的な独立外交戦を展開した。相手は第一次大戦の勝者であり列強の一角を占めた大日本帝国であった。
当時、日本帝国の兵力は700万ともいわれたが、韓国側の光復軍は350人余、外交代表団はわずか5人。まさに”ダビデとゴリアテ”の構図である。常識的には無謀に映る闘いだからこそ、李承晩の勇気と執念は人々を深く動かした。
韓国代表団は各国代表への請願外交を積極的に展開し、韓国独立の国際法上の正当性を訴える文書を相次いで発表した。とりわけ「韓国人民致太平洋会議書」と題する請願書には、皇族・貴族・地方代表・団体代表ら372名が署名し、独立への切実な意志を国際社会に示した。
同時に、公式外交ルートが閉ざされていた状況下で、李承晩は”草の根レベルのパブリック・ディプロマシー”にも力を注いだ。米国市民を対象とした公開演説、英語論文の寄稿、パンフレット作成・配布などを通じ、韓国の惨状と独立の必要性を世論に訴えたのである。
こうした努力により150紙を超える米国メディアが李承晩を報道し、一部の有力紙は彼の主張に理解を示した。こうした世論の高まりは日本政府を大いに緊張させ、日本の有力紙も「独立運動の首魁・李承晩」と報じる事態となった。この記事を受け、在米日本公使館は直ちに外務省へ報告し、李承晩の動向を警戒し始めた。
1933年、満州事変・上海事変、そして「満州国」承認をめぐり国際連盟が特別会議を開いた際、李承晩は臨時政府の特命全権首席代表としてジュネーブに派遣された。彼は日本の侵略を占領地住民の視点から告発し、「東洋人自らの独立要求」の正当性を訴えた。この活動は米国・中華民国など一部列強に暗黙の支持を生み、国際世論形成に一定の影響を与えたとされる。
これを受け、日本外務省はついに在欧公使館を通じ、李承晩の動向を追跡するため特別担当者を派遣した。朴錫胤である。彼は東京帝国大学で政治学を学び、さらに英国ケンブリッジ大学で国際法を専攻したエリートであった。朴は欧州各地を調査し、李承晩の外交活動を逐一報告。李承晩が連盟に提出した文書を日本語に訳し、「不穏文書」として扱うよう本省に進言した。日本帝国はこうして、彼の外交活動を密かにだが厳重に監視したのである。
こうした一連の事実は、李承晩の外交戦が武装闘争に匹敵する影響力を持っていたことを示す。日本政府は彼の国際的影響力を深刻に受け止め、警戒を強めていた。李承晩の緻密な外交戦略と世論形成は、結果的に日本の国際連盟脱退を後押しする一因となったともいわれる。
その後、1941年8月に刊行された李承晩の著作『Japan Inside Out』は、日本帝国を震撼させる”決定的な一撃”となった。李承晩は日本軍国主義の本質を鋭く見抜き、「近く日本は米国と戦う」と警告した。内容そのものは広く知られた事実を含んでいたが、それを朝鮮人の視点から体系的に論じた点が大きな衝撃を与えた。
米国の著名作家パール・バックは同書を評してこう述べた。
「私が恐怖を覚えるのは、この本が語ることがすべて真実であるという点だ」
そして出版からわずか4カ月後、日本は真珠湾を攻撃する。『Japan Inside Out』は瞬く間に全米でベストセラーとなり、李承晩は”国際政治の先見者”として広く認識されるようになった。彼は優れた慧眼をもって、迫り来る世界の危機に警鐘を鳴らしていたオピニオンリーダーだった。


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