新解釈日本書記「続」応神 幻の大和朝廷 第101回 伴野麓

日付: 2025年11月18日 12時07分

 現代日本人は、祖先を切り捨て次から次へと姥捨て山へ送り込んだ民族とのそしりを免れない。自らを宙に浮いた謎の存在と認識し、その謎を真実追求ではなく、好奇心で楽しんでいるかのように感じられる。真実の歴史を追い求めると、そこに韓地が登場し、先祖を切り捨てた恥辱が蘇って来るのか、そこで思考を停止してしまい、謎だという結論に終始し、それを、好奇心のみで楽しむ姿勢に転化してしまっているように感じられる。
明治時代の皇国史観論者らは、厚顔無恥にも、過去の歴史偽造を正当化するために、韓地南部の伽耶遺跡の盗掘、高句麗広開土王碑の改竄、七枝刀の改竄などなど、さまざまな犯罪的な細工を施したことはよくしられたことだ。

蘇我馬子の勝利は倭国を仏教化す る革命であった

崇仏派の蘇我馬子が、排仏派の物部守屋らに勝利したことにより、倭国を新しく仏教国にするという革命が成功したことを明らかにした。蘇我氏は韓地百済(温祚百済)の代弁人であり、それは、蘇我氏と韓地百済が一体となって、倭=沸流百済を飲み込んだ革命であった。
蘇我氏は、5世紀末に百済から渡来した木刕満致の後裔で、木刕は木羅とも書かれ、木と同じで、木氏は、百済8大姓の一つで、百済を支えた有力氏族であった。
倭国を仏教化しようと考えたのは、聖(聖明)王の時からだと思われる。聖明王の父は武寧王で、倭国に長らく逗留して帰国し、百済の大王に即位した。
その武寧王は、沸流百済の血脈に通じる大王であったろうと思われるが、温祚百済の体質を受け継いできたであろう韓地の百済の大王に即位することによって、武寧王も温祚百済の体質に染まらざるを得なかったと思われる。
蘇我氏は、倭国を仏教による統治の革命を目指す韓地百済(温祚百済)の意を体した存在、つまり温祚百済の代弁人であって、倭国を仏教化する使命を帯びていた。
倭国を仏教化する革命に勝利した蘇我馬子は、当然に倭国の大王に匹敵、あるいはそれ以上の権限を有する存在になっていたはずで、仏教を流布するという大義名分で、それを阻害するものは大王であっても弑する権限を有していたと思われる。仏教流布の大義名分によって私腹を肥したであろうことまでは否定できない。


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