いま北韓の人々に本当に必要なものは何か。それは、世界の現実を自ら理解し、判断するための「正確で信頼できる情報」である。ところが今年3月、トランプ米大統領は米グローバルメディア局(USAGM)の事実上の廃止を命じる大統領令に署名し、ボイス・オブ・アメリカ(VOA)やラジオ自由アジア(RFA)、韓国国家情報院が運営してきた北韓向けラジオ・テレビ放送は相次いで中断された。北韓では、これら海外放送を盗み聞きすることは発覚すれば重罪であるにもかかわらず、国際社会の動きを知りたいと願う住民は密かに耳を傾け続けてきた。だがその貴重な生命線が弱まりつつある。
そうした空白を埋めようと、韓国で新たな対北メディア「コリアインターネット放送(KIS)」が発足、11日にソウル市内で発表会が開かれた。KISは「北の住民に客観的で信頼できる情報を伝え、世界を正しく理解し判断できるよう助けることが使命」と掲げ、インターネットとデジタル技術を用いた”新しい対北メディア時代”の開拓を宣言した。これまで韓米政府が担ってきた対北放送が止まった今、その代替を担う存在として期待が寄せられている。
放送内容は、独自アプリの開発に加え、YouTube、Facebook、中国の抖音など複数の国際的映像プラットフォームを通じて配信される。北韓国内では一般住民のインターネット利用は不可能だが、中国やロシア、東南アジア、中東などに住む約20~30万人の海外在住北韓住民(推定)が主要な視聴対象となる。KISのイ・ヨンヒョン代表は、11のグローバル配信網を利用しつつ、将来北韓本土にインターネットが普及した時に備え、放送体制を構築する意向を明らかにした。
北韓という閉ざされた社会に客観的情報を届ける仕事は極めて困難だ。だが、どれほど強権的な国家であっても、そこには「世論」が存在する。民主社会のように集会やデモで不満を表明することは難しいが、閉塞した生活苦や不正への怒りが限界を超えれば、一部の住民が行動に出ることもある。過去、そうした潜在的な意識変化を支えてきたのが、RFAやVOA、そして韓国NGOによる短波放送であった。特に潤沢な米国予算で運営されてきたRFAやVOAの影響力は大きく、その停止は北韓の情報環境に深刻な空白を生んでいる。
一部の韓国NGOは短波放送を継続しているものの、米国からの支援が途絶え、財政的な先行きは明るくない。他方、風船ビラ散布などパフォーマンス的手法や、尹錫悦前政権が平壌への無人機投入疑惑で「利敵罪」に問われたような危険な謀略では、北韓社会に持続的な変化を促すことはできない。
金正恩体制に変化をもたらすには、時間をかけた住民の意識改革が欠かせない。そのためには、北韓の人々が切望する「外の世界の情報」を、地道に、正確に、そして継続的に送り続ける努力が必要である。KISの誕生は、その新たな挑戦の第一歩といえるだろう。北韓の人々が自らの未来を選び取るための知識と視野を広げる取り組みは、今後ますます重要性を増していくに違いない。
高英起(コ・ヨンギ)
在日2世で、北朝鮮情報専門サイト「デイリーNKジャパン」編集長。著書に『コチェビよ、脱北の河を渡れ―中朝国境滞在記―』など。