持統天皇が西暦703年に崩御した。孫の文武天皇が皇位を継いだ。
文武天皇は草壁皇子と阿閇皇女(あへのひめみこ)との間に生まれた。文武天皇の母・阿閇皇女は、持統天皇の異母妹だ。つまり、草壁皇子は一歳年上のおばと結婚したのだ。
古代皇室の近親婚は、皇位の継承や皇室の安定に関係していたと考えられる。一般的にいわれる近親相姦とは違う性質の制度だ。
ところが、文武天皇が西暦707年、24歳で夭折した。皇位の継承をめぐって混乱が生じたようだ。
嫡流の後継者として首(おびと)皇子がいた。しかし、首皇子は幼すぎるという理由で皇位の継承から外された。皇室に緊張が走った。
嫡統を排除し、大した権力も持たなかった平凡な女人だった阿閇皇女が皇位を継ぐべきだという議論が急に浮上したようだ。
阿閇皇女は、持統天皇のもとでは何の影響力も持たない、「文武天皇の母親」に過ぎなかった。
本来なら、首皇子が即位し、母の阿閇皇女が後で輔佐すれば済むことだ。だが、どうしてか「(天武)持統天皇の男系嫡統が皇位を継ぐべき」との大義名分は力がなかったようだ。
皇位継承の秩序が乱れた。何かがあった。
当時の人々は、その事情を万葉集に収められた二首の歌にしまっておいた。それで、万葉集の作品は、歌に書かれた歴史なのだ。
文武天皇の葬儀を前に、母の阿閇皇女とおばの御名部皇女(みなべのひめみこ)は涙歌を詠んだ。万葉集の76番歌は阿閇皇女の作り、77番歌は姉の御名部皇女の作品とされている。姉妹の歌だ。
万葉の時代には、死者に向かって弓を射る風習があった。鋭い鏃を持つ殺傷用の矢ではなく、先が丸い嚆矢だった。この風習は、冥界へ旅立つ者のために、という呪術的な行為だった。
文武天皇の冥途の旅立ちには、深い悲しみの歌が詠まれたはずだ。ところが、万葉集に収録されている76番歌と77番歌は、一見すると「悲しみの歌」として解釈され得る半面、「呪いの歌」としても解釈できるものだ。
万葉集で、あり得ないことが起きていた。意図的なことであろうとなかろうと、謀反とみなされかねないことだ。誰がこのようなことがあると想像すらできるだろうか。
万葉集の解読は、このようなことを突き止めねばならず、暗闇の中を手探りで進むも同然のことだ。反転また反転があるため、想像に想像を重ねなければならない。
私は、万葉集の編纂者が、何かの目的を持って当時、作られた多くの涙歌の中から、あえてこのような歌を選んで収めたものと考えざるをえない。
万葉集の編纂者は、持統天皇の血統に呪いや呪術を行っていた。
誰がこのようなことを行ったのか。何の目的でそれをやったのか。
混沌の皇位継承~元明天皇即位の秘密~(万葉集第76・77番歌) <続く>