11世紀初め、大陸の女真族(満州族)が50叟の大船団で対馬・壱岐・北九州一帯を襲い、大人、子供1289人を連れ去ったが、そのうち200余人を高麗軍が救出して送り返してくれた事件があったことを前回書いた。この侵略の目的は労力としての人間を奪うことにあった。
ただ、海に守られた日本ではそのような事件はごく稀だったが、古代から中世にかけて世界中で頻発した。有名なのは3世紀の中国、魏・呉・蜀の三国時代。
このころの中国は戦乱や飢饉、疫病のために人口が激減、150~230万人と劣勢だった呉は富国強兵策として台湾や琉球(種子島襲撃説もある)に軍隊1万人を派遣して人をさらいまくった。”呉の人狩り戦争”と呼ばれる。
大陸と接する韓半島もその災難は多かった。4世紀、鮮卑族(モンゴル族)の慕容氏が高句麗の都、丸都を襲い、男女5万人もの人をさらったという記録がある。
9世紀、東アジアの海上王として一種の独立した国家のようなものを作った張保皐は多くの新羅人が拉致され、奴隷として中国に連れ去られるのを見て義憤にかられ海賊を撲滅したことで知られるのもその状況を表す。
日本(倭)も韓半島で人さらいをしたようだ(北九州の勢力とも加耶に住む倭人という説もある)。記録によると、倭人がたびたび新羅に侵入しているが土地を長期間占領するわけではなく、ターゲットは財産と人間だったのであろう。5世紀が最も多く、5年に1回、18回もの侵入記録がある。
古代の話から外れるが、16世紀の話も書いておかなくてはならない。日本が犯した蛮行の代表の一つが秀吉の文禄・慶長の役(韓国では壬申倭乱・丁酉再乱)だ。両戦争で日本から30万人の兵が海を渡り、韓半島を血に染めた。結局この戦争は露ほどの領土の変化もなく勝利国もなく終わったのだが、韓半島の犠牲によって文化や技術は得た。
後世の日本では「陶磁器戦争・書籍戦争・活字戦争…そして捕虜戦争」という定義づけも生まれた。
さらわれた陶工によって日本の陶芸文化が飛躍的に発展したことは改めて説明するまでもないが、多くの貴重な書籍が掠奪され、朝鮮に遠征した各地の藩の文庫に収められた。焼き捨てられた書籍もまた多かったことだろう。また書籍だけでなく、仏画や扁額、鐘…、さらには石橋まで持ち去ったようだ。
当時、世界最先端であった印刷機も銅活字とともに奪われた。ただ、掠奪した十万字以上の銅活字も日本では油性の墨の調合ができず、ほとんど使われることはなく、代わりに朝鮮の金属活字に倣った木版活字となった。
そして「捕虜戦争」。賊にさらわれると拉致、国との戦争になると捕虜となるのだろうが、その数は何万人にもなったと推測される。儒学者や医者などの知識人が狙われたが、高知の豆腐、薩摩の防虫剤の樟脳、佐賀の製薬、熊本の製紙などは半島を襲ったそれぞれの藩に連れ去られた朝鮮の人たちが生んだものだった。
最も悲惨だったのがポルトガルや中国の奴隷商人に売り飛ばされた人々だろう。驚くべきことに戦争時、長崎の大村に奴隷市場ができたという。海外に売られた人たちがどうなったのかはわからない。唯一、イタリアの旅行家F・カルレッチの記録にあるアントニオ・コレアという人物がそうではないかと推測されている。
17世紀の油絵の巨匠ルーベンスの作品に<韓服を着た男>というスケッチ画があるが、若く利発そうなモデルの男こそ、そのコレアではないかという説がある。時代はピタリと合う。長崎の大村からヨーロッパに連れていかれた少年が、幸運なことに彼を買った主人に愛情をもって育てられたのではなかろうかと想像してしまう。イタリア南部のカラブリ州アビン村に今もコレア姓(COREA)を名乗る人たちがいると、『文禄・慶長の役』(講談社選書)の筆者、崔官氏が教えてくれる。奴隷としてヨーロッパに連れ去られた人々のなかの唯一のホッとする話だ。
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次は女性たちの受難の話である。”女もつらいよ”だ。
以前、奈良時代の淳仁天皇(在位758~764 後に廃帝)が舞姫と楽女十数人を渤海に贈り、十数年後にその舞姫たちは渤海王からまた唐に贈られたという話を書いた。
古代にあった「貢女」である。
高麗は美人で名高い国であった。韓半島に侵攻したモンゴル/元は高麗王朝に貢女を何度も要求した。研究によれば、1231年から1363年までの間に少なくとも1479人もの高麗貢女が韓半島から元の大都に送られ宮殿内で働く官女になっている。
古代、日本の各地の豪族の娘も采女として宮廷に仕えたが、たまには里帰りできたであろう。一方、高麗から異国に贈られた娘たちは二度と故国の土を踏むことはできなかった。
次回は高麗貢女を中心に勉強したい。 <つづく>
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慶長の役の南原城の戦いの折、島津軍に拉致された沈/朴/金/鄭/李の各氏は串木野郊外の苗代川(美川)に居をかまえ薩摩焼を確立した。写真は「白薩摩御庭焼花瓶」ctouji-gum.com
(陶磁オンライン美術館提供)
一般にはあまり知られていないが、第二次世界大戦終戦時の外務大臣、東郷茂徳は旧姓が朴であり、苗代川出身の拉致された高麗人の末裔であった。写真は「元外相東郷茂徳記念館」敷地内に建立された東郷茂徳像 (日置市提供)