朴正煕大統領は執権18年間、何回も決定的な挑戦、危機に直面する。朴大統領は自身の革命目標を達成し、北韓との競争で勝ち、自主国防のため「10月維新」を選ぶしかなかった。「維新体制」の敵といえば、国内の政治的挑戦勢力と米国などの圧力を考えがちだが、朴大統領が克服し難かった決定的な課題は、もっと根本的かつ構造的な問題、つまり力動的に変化する国際秩序と環境だった。
権威主義政権・強権統治体制が国内の挑戦や課題に対応、統制することなどは基本的に、日常的な課題に属する。権威主義の強権体制が対応し難い、あるいは対応できないのは、国外からの挑戦、国際秩序の変化だ。
国際秩序の急変、国際環境の変化。例えば、強大国の立場と政策が急変するとき、弱小国はこの変化に翻弄される。韓国は大陸の一部から島国になり、海洋国家貿易国家として活路を見出さねばならなかった。エネルギーと資源を輸入して製品を生産、絶えず輸出市場を拡大せねばならない韓国の立場は、国際環境の変化に非常に脆弱だった。新生後進国の宿命として受け入れ、対処するしかなかった。朴正煕大統領は最善を尽くし、創造的に上手く対応した。
朴正煕は産業(重化学工業)基盤の建設と同時に、国民が国家的課題に邁進するよう国民精神(意識)を教育せねばならなかった。輸出を継続的に拡大、国民に高級な職業、良い職場を提供するためには重化学工業が絶対必要だった。韓国の中産層は、重化学工業の成功・成長を通じ形成した。
国際社会の圧力、国際秩序の変化に対応するのは難しい問題だ。長く続いてきた習慣や意識、発想を変える大胆で創造的な対応が求められた。国家の指導者・エリート層の洞察力、企画・実行の能力などが機能しないとどうなるかを中国共産党の「文化革命」が見せてくれた。韓国は1962年から経済開発5カ年計画を始めた。ところが韓国より9年早く5カ年計画を始めた中国は、間違った路線に加え、66年から10年間の「紅衛兵の乱」(文化革命)を経ながら、すべてが後退した。中共が「紅衛兵の乱」10年を挽回するのに20年以上かかった。
70年代は、韓国にとって疾風怒涛の時代だった。反共民主体制で産業化へ邁進していた韓国に、デタントは経験したことのない当惑する変化だった。東西冷戦の最前線だった韓国が新しい国際秩序に適応することは大変だった。革命家として徹底し、自主人だった朴大統領は70年代を通じ、米国と葛藤するしかなかった。米ソのデタント・米中関係正常化・日中国交正常化などの過程で、米国と日本は韓国の立場に配慮しなかった。米国は韓国の交戦相手だった中共と和解、中共が国連安保理常任理事国(71年10月)として韓国の前に立ちはだかった。第4次中東戦争とオイルショックが起きた。米国は韓国のためにやってくれたことがなかった。
安保危機に直面した韓国は創造的生存方式を模索せねばならなかった。朴大統領の瞬発力が光った。ベトナム戦争から抜け出し絶望的な状況下で活路を探していた韓国は、オイルマネーがあふれる中東での機会を掴む。朴大統領は米国とイスラエルの反発を押し切って、中東産油国イスラム諸国との関係改善に出た。韓国は中東地域に建設進出し、蘇える。商品輸出に加え、建設進出は土木建設から間もなくプラント輸出に進む。
朴大統領は韓国の自主国防を牽制しながら、絶えず西欧式政治モデルを強いる同盟(ワシントン)にあきれた。米国は大統領が変わるたびに政策が変わった。
(つづく)