日本史学界は”幻の大和朝廷”論を振りかざし、倭が韓地を支配したかのごとく論述、拡大再生産している。そのような偽史を教科書などにも著述し、韓半島侵略の根拠としたことなどは、まさに歴史を歪曲する犯罪行為以外の何物でもない。
戦後になって、そうした犯罪行為を少しは反省する時期もあったようだが、最近の世間は右傾化しているといい、そうした世の中にあって、偽史が大手を振ってまかり通っている風潮を感じる。その最たるものが、植民地政策の反省が心からなされていないことに現れている。
〔崇峻紀〕
物部氏らの敗北により神道=儒教国から仏教国へと 転換
物部氏ら排仏派の敗北により、倭国は神道=儒教国から、崇仏派の仏教国へ転換したことを明らかにした。それは、韓地百済(温祚百済)と蘇我氏が一体となった革命であり、蘇我馬子は韓地百済の代弁人となって、その革命を遂行したと考えられる。その革命が成功し、倭国の支配者層は新体制になった。
用明は在位2年で死去したということだが、用明の伝承が周防国にあり、その伝承と周防国における琳聖太子との伝承が重なることを発見した。まさに驚天動地のことだ。それは、用明が琳聖太子であったという結論になってしまうからだ。
武寧王の長子である聖明王は、父の意を体して倭国を支配、換言すれば、百済化に熱心であったと思われる。その方法として、倭国の仏教化を勧め、支配者の意識を百済化しようと考えたと思われ、そして、蘇我氏を百済の代弁人にし、仏教流布の大役を委任したと考えられる。
その証として、百済王族の娘を蘇我稲目に下賜し養女にさせたと思われる。それが崇峻の母の小姉君で、稲目の子の馬子の代になって、小姉君の子は冷遇されたと思われ、穴穂部王子と泊瀬王子の兄弟がともに馬子に殺害され、無念の死に追いやられたと考えられる。
蘇我馬子が、大王家側近の物部氏を滅ぼし、みずから推挙して大王の位につけた崇峻を弑したのは、蘇我氏の専横を示すものだという説があり、その専横を蘇我氏の個人的なものと見る見方があるのだが、それは、韓地百済との関係で把握されるべきものだと考えられる。