時代を導く「指導者 李承晩」 (第7話)

金正珉 財団法人李承晩大統領記念財団責任研究員
日付: 2025年11月05日 10時04分

ハワイで「大韓の未来」を担う世代を育てる

 「この書をしたためているのは、日本の過ちを知らしめることではない。我々はできる民族だということを示すためである。この志を理解し、行動に移すよう努めよ。この書は在米韓人すべての一助となるだろう」

1913年2月、李承晩はハワイに渡るやいなや、著書『韓国教会迫害』をハングルのみで執筆した。冒頭のとおり、著者の目的は日本帝国の非道を糾弾することではなかった。むしろ、現地の韓人社会において民族としての誇りと独立に向けた活動を鼓舞することにあった。実際、ハワイの韓人学生たちはこの本をもとに演劇を上演するなど、ハワイに住む韓人らの独立意識を高める上で少なくない影響を与えた。

38歳でハワイに定住した李承晩の目的は、独立運動の基盤を築くことだった。メディアを通して独立に必要となる知識や情勢を韓人社会に伝えたほか、韓人による独立的な自主教会を設立し宗教的な自立を図りつつ国が独立するための基盤を作った。だが、彼が最も力を注いだのは、未来を担う若者の育成だった。

李承晩は政治家である以前に、教育者であった。13年、ハワイのメソジスト監督ジョン・W・ワードマン(John W. Wadman)の提案により、アメリカ・メソジスト教会が運営していた韓人寄宿学校の校長に就任した。李承晩校長は校名を「韓人中央学校」に改称し、量的・質的に両面で大きく発展させた。当時、ハワイの新聞『アドバタイザー』は、李承晩を「韓国の若き革命家が米国の名門大学で博士号を取得した後、ホノルルの教育者へと転身した」と紹介し、彼を「偉大なる小博士(The Great Little Doctor)」と称した。

16年になると、李承晩は「韓人女子学園」を設立した。国権回復に寄与する人材を育成するという教育目的を実現するためには、米国市民化を目的とする米国宣教部からの独立が不可欠だった。李承晩は、独立した教育機関の運営こそが、独立思想を育み、自治の力を養うことが独立の根源であると考えた。生徒たちには韓国語や韓国の歴史・地理などを教え、祖国の民族意識を忘れぬよう教育を施した。その後、18年には韓人女子学園を母体として、男女共学の「韓人基督学園」を設立した。そして、キリスト教をベースとした学生活動の促進、韓国人としてのアイデンティティーの涵養、リーダーシップの育成などを教育の基本方針として掲げた。

李承晩は、韓人同胞社会を超え、ハワイの司法当局からも信頼されるほど教育者としての名声が高かった。18年、ハワイ少年裁判所で13歳の韓国人少年が非行少年として裁判を受けた際、裁判所はその少年の保護と指導を李承晩博士に委ねる決定を下した。当時の関連法によると、14歳未満の少年は刑務所に収監する代わりに、正式に任命された保護観察官、またはそれに相当する適任者に委託して保護・指導を受けさせることができた。ただし、裁判官が保証できる人物でなければならず、これはすなわちハワイ司法当局がその人物への信頼を公的に認めることを意味した。裁判所は李承晩博士を信頼し、韓人少年の保護を託したのである。李承晩はその少年を引き取り、保護と養育に尽力した。

また、韓人学生たちをハワイの歴史・文化行事に参加させることも、李承晩の重要な活動のひとつであった。当時のハワイは、中国系、ポルトガル系、日本人など多くの移民が暮らす多民族・多文化社会であり、ハワイ当局は各民族の文化交流を目的に、毎年「ミッド・パシフィック・カーニバル」を開催していた。この祭りは、海外に住む同胞たちが韓国の伝統と民族的アイデンティティーを示すことのできる貴重な舞台でもあった。現代では、在日同胞が「四天王寺ワッソ」を通じて韓国の歴史と文化を受け継いでいるように、当時のハワイ同胞たちは「ミッド・パシフィック・カーニバル」に参加し、韓国の伝統文化と民族精神を広く伝えていた。

李承晩は、韓国の象徴である光化門を模した山車を作り、韓人女子学園の生徒たちを率いてパレードに参加した。韓服を身にまとった学生たちは太極旗を振りながら、韓国の文化と精神を広く発信した。李承晩の指導のもと、祖国の未来を担う「大韓の次世代」は、このようにして育てられていったのである。

1917年2月、Mid Pacific Carnivalのパレードに参加した韓人女子学園の生徒たちと李承晩


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