古代の韓半島と日本列島の関わりについて勉強している。そもそも古代というのはいつまでだろうか。古代の次は中世となるわけだが、日本で中世という時代区分がうまれたのは明治末期。西欧からの輸入思想である封建制時代のことを、日本では中世と定義したということだ。律令制の崩壊、武士の台頭によって封建制(主君が家臣に土地を与え、家臣が主君に忠誠し仕えること)が始まり、中世に入ったのは平安時代の10世紀半ばとも11世紀ともいわれている。
韓国で中世の定義がどうであるかはわからない。私の知識では歴代、中央集権制だと思ってきたが、そうでもない説がある。高麗は時代が進むと功臣に「賜田」「食邑」など土地を分与し、その上に王権が成り立った封建国家に発展したという説もあるから、日本と同じような時期に中世が始まったようだ。
高麗は中世……それなら古代史万華鏡の課題から外れるが、10世紀、11世紀あたりの初期高麗と日本との関係はぜひ取り上げておきたいテーマである。
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改めて説明するまでもなく高麗は長い王朝の歴史のなかで常に外部勢力に脅かされ続けた。ある調べによると半島は有史以来931回もの侵略を受けたといわれるが、高麗時代が最も多かったのではないか。建国当初から南進しようとする北方民族の契丹(後に遼)や女真(満州族、後に金・清)、その後のモンゴル族の侵略と元の支配。南からは倭寇が半島南部を荒らした。高麗は470余年間、間断なく侵略された、なんとも大変な王朝であった。
初期の高麗はやられるばかりでもなかった。高麗の半島統一後に隣国、渤海は契丹に滅ぼされるのだが、高麗は渤海の王世子をはじめ奴婢までを遺民として受け入れ保護している。遺民の力を借りて高句麗時代の故地を回復しようという目論見があったろうが、それは同じ民族という人道的同根意識といえよう。勝ったり負けたりの攻防戦は高麗が一歩譲る外交で契丹に朝貢する形で講和(1020年)。広大な故地回復は果たせなかったが鴨緑江までが高麗の領土となった。
さて後百済、新羅を滅ぼし、韓半島を再統一した王権(即位して太祖となる)の初期高麗と日本の関係はどうだったであろう。
高麗は日本との関係を重視、統一後ただちに937年と939年の2回、日本に国交を求める使者を派遣している。このことは日本に断片的な記録が残っている。いわゆる近隣の国との争いの後ろ盾を得るための近攻・遠交政策だと思われるが、2度とも礼をつくした朝貢形式だったと研究されている。しかし、2度に及ぶ国交の希望は拒否され、受け入れられることはなかった。
日本は8世紀末に新羅との国交を断ち、続いて遣唐使の廃止以後、鎖国政策を取っており、外国との国交を開く意思はなかった。以後日本はどの国とも公的な交渉はなく、孤立の道を歩んだ。
それでも高麗の好意的な日本重視の姿勢は続く。1019年、海を越えてやってきた勢力に対馬・壱岐から肥前・筑前一帯が襲われた、いわゆる刀伊の入寇事件にそれがよく表れている。
壱岐島では400人が殺戮、拉致され、残った島民はわずか39人の惨状。各地も襲撃され、1300人もの男女が連れ去られた。この事件は当初、高麗人の仕業と思われていたが、その正体が今の沿海州とその周辺を根拠にしていた女真族の一派、刀伊であったことがわかった。高句麗軍が根拠地に帰る途中の刀伊を撃退し、捕らえられていた日本人を救出、男女200人あまりを送り返してくれたからである。あの殺伐とした時代の国際的な人道的行為。ちょっとあり得ない話である。第8代・顕宗王の時代のことである。
こんな話もある。この刀伊の襲撃事件により、母と妻子を連れ去られた対馬の判官代(中堅の役人)であった長峯諸近という武士が、妻子を取り戻すために単身高麗に密航。必死に探した。残念ながら探し求めた母や妻子は見つけることができなかったが、高麗に残っていた十数人の日本人を連れ帰ったという記録がある。この話なども高麗という国と人々の親切な協力なしでは成し遂げることは不可能であっただろう。
それに対して日本はどうだっただろう。
60年後の1079年、疫病に苦しんだ高麗は日本に医者を派遣して欲しいと方物(土産)を献じて要請してきたが、日本は要望書が無礼だ、態度が無礼だと方物を突き返して要請を断っている。60年前の高麗の温情に応えることはなく、それこそ礼は無かった。
美しい高麗青磁や螺鈿漆器を生み、グーテンベルグより前に金属活字を発明した高麗は高度な文化国家であった。度重なる戦乱の中でも仏教の博愛精神を追求した高麗は精神面でも文化国家であったといえる逸話を紹介してみた。
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青緑色と造形が美しい高麗青磁は10世紀頃から作られ始めた。ちなみに青磁は「仏教の無」、もう一方の韓半島を代表する白磁は「儒教の素朴さを表す」という芸術論がある。写真は13世紀高麗時代の「青磁象嵌牡丹文扁壺」
(高麗美術館提供)
高麗は世界で一番古い木版印刷本「八万大蔵経」を作り、世界で初めての金属活字と印刷本「直指心体要綱」を作るなど、印刷文化が最も進んだ国だった。写真はユネスコ世界遺産の海印寺大蔵経板殿。八万大蔵経版木を収蔵している
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