時代を導く「指導者 李承晩」 (第4話)

金正珉 財団法人李承晩大統領記念財団責任研究員
日付: 2025年09月30日 10時36分

獄中で新たな国の青写真を描く

 東西古今を問わず、国民の精神を呼び覚ました指導者の名著はしばしば獄中で生まれた。使徒パウロ(Paul)の『獄中書信』は、皇帝ネロの暴政に苦しんだローマのキリスト教徒に殉教の精神を呼び覚まし、ボンヘッファー(Bonhoeffer)の『獄中書簡』はヒトラー統治下のドイツ人の良心を呼び覚ました。

大韓の青年指導者・李承晩の啓蒙著作『独立精神』もまた1904年、獄中で書かれた。日帝下で禁書とされたこの本は執筆当時には出版できなかったが、1910年に米州で初めて刊行され、在外同胞の愛国心を鼓舞するうえで重要な役割を果たした。解放後には韓国で数種の版が再出版され、名実ともに李承晩の代表作として知られるようになった。

1903年、漢城監獄で終身服役囚だった李承晩(左端)と獄中同志たち
李承晩が漢城監獄署に収監されたのは1899年1月のことだった。高宗は皇帝廃位の陰謀に加担したとの嫌疑で李承晩を拘禁した。未決囚として7カ月間、昼は苛烈な拷問を受け、夜は首に鉄枷をはめられ手足を鎖で縛られ独房に入れられた。裁判の結果、終身刑を言い渡された李承晩は1904年8月に出獄するまで計5年7カ月の獄苦を味わうことになる。

長い獄中生活を送った李承晩が獄中でできることは読書だった。聖書をはじめキリスト教書籍、歴史や文明論関連書、国際情勢や国際法の書籍をむさぼり読んだ。宣教師が貸与する西洋の新聞や雑誌に目を通し、世界の動きを把握した。李承晩は幅広い読書を通じて指導者に必要な知的素養を積み重ねていった。

やがて彼は獄中に図書室(書籍室)を開設。宣教師から寄贈を受け、漢文書423冊、ハングル書197冊、英文書40冊を収蔵した、史上初の監獄図書館だった。後に民族指導者や独立運動家として活躍する多くの獄中同志がここで歴史・政治・宗教・文明など新たな知識を学んだ。

李承晩は囚人教化を目的に獄中で学校を開こうとした。彼は署長に対し、監獄を「懲罰の場」ではなく「改過遷善の場」として活用できるよう許可を求めた。結局、署長の支援により韓国刑政史上前例のない獄中学堂が設立された。子どもたちにはハングル・英語・日本語などの言語と歴史・聖書を教え、成人班では民主主義や世界地理、天文学も教育した。李承晩は囚人の身でありながら学堂の教師として奉仕し、新学問の普及に尽力した。李承晩を中心に知的成長と信仰的豊かさを享受した漢城監獄署を、当時の獄中同志らは「福堂」と呼んだ。

獄中でのこのような啓蒙が、いずれ獄外の国民へと広がりを見せるのは必然だった。当時、大韓帝国は列強の圧迫下で国権を失う瀬戸際にあった。青年・李承晩は国民一人ひとりが国家的危機を自覚し、自ら独立精神を持つよう促すため筆を執った。

彼の期待は外勢依存的な君主や腐敗した支配層ではなく、未来の国家の主人となる庶民にあった。ゆえに『独立精神』は庶民が読める平易なハングルで書かれた。李承晩は大韓の将来は全面的に国民にかかっていると考え、国民が主人となる新しい国の青写真を示した。

彼は世界主要国家の政治理念や制度を紹介し、その中で米国式民主主義を最上と評した。ただし過渡期的には皇帝と国民が協力する立憲政治の実現を優先目標とした。すなわち、国家の制度は国民の水準に応じて発展していくものであり、大韓のすべての国民が「独立」という二文字を胸に刻み、新しい国をつくろうという希望に満ちた呼びかけだった。

『独立精神』の脱稿直後、序文で李承晩は次のように力説した。
「ただひたすら私が真に願うのは、わが国の無学で卑しく幼く弱い兄弟姉妹たちが自ら目覚め正しく行い、他者を導いて日々国民の心が変わり風俗が改まり、下から変わって朽ちた地から芽が出て、死地からよみがえることを望んでやまないのだ」

李承晩は獄中でも祖国の進むべき方向を示し、率先して実践した。監獄を近代知識の揺籃、そして新学問教育の場へと改革する先頭に立った。彼は獄中にあってもなお進取の気概に満ちた指導者であった。


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