後世、沸流百済の歴史が抹殺され、倭が日本列島であるとの認識が定着するにつれ、倭=沸流百済が倭としてのみ認識されるようになり、それに伴って、倭が韓地を支配していたという結果だけが残ることになったのだ。とんでもない錯誤というほかなく、史実が忘却の彼方に押しやられてしまったのだ。
そうした偽史を定着させたのが、平安時代の「日本紀講筵と竟宴」という宮廷行事の学習と思われる。そうした学習では、神功の新羅征伐とか任那復興などが自慢げに語られ、民族意識を高揚したと思われる。そうしたことによって、『日本書紀』の小説のような記述が史実と見なされ、歴史となって定着したと考えられる。
『日本書紀』は〝百済書紀〟といってもいいほど
欽明が百済聖明王である可能性があると指摘した。百済聖王(聖明王)は新羅の伏兵に殺されたのだが、『日本書紀』には聖明王の死の前後について、『三国史記〈百済本紀〉』より、はるかに詳しく叙述している。それゆえ、〝百済書紀〟といってもいいほど、当時の百済のことを伝えている。裏返せば、倭は百済であったということにもなる。
聖王と記す『三国史記〈百済本紀〉』だが、明王とも記されている。『日本書紀』には聖明王と記され、時に明王と記されている。考えてみれば、聖明王という名称は、聖+明の合成語だとも考えられ、明王に聖を冠すれば聖明王となり、欽を冠すれば欽明となる。つまり、明王が百済でも倭でも通用する名称であり、百済と倭の大王を兼ねていて、百済の大王として指称する場合は聖明と呼び、倭の大王として呼ぶ場合は欽明と称していたのではないかと思われる。つまり、異名同人ということだ。また、任那復興会議で、聖明王が主導していることもその証左と見られるのだ。
さらに、欽明は63歳で死去したということだが、『日本書紀』は死去年を、「年若干」と記している。63歳を「年若干」と記すのは、どう考えても不可解なことだ。欽明の即位年を531年とし、そのとき欽明は10歳余であったという説もあるが、治世33年であれば、欽明の没年は43歳余となるから、その年を「年若干」と記すのも不可解なことだ。
即位年も「年若干」、没年も「年若干」の真相は、欽明の実在は疑わしいということであり、欽明の実体は、百済聖王(聖明王)、あるいは聖明王の意を体得した蘇我稲目であったと考えられるのだ。
太古の時代、日本列島は無人島に等しい地であり、韓半島からの渡来人が列島を開拓したという史実に目をそむけてはならないだろう。『神皇正統紀』は、「異敵の来襲は開化48年の時に3万3千人、仲哀時代に20万3千人、神功時代に30万8千5百人、応神の時に25万人、欽明時代に30万4百人、敏達の時には播磨国の明石浦までやってきた。推古8年に43万人、天智元年2万3千人、桓武6年40万人」と記す。